祈りにある責任

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昨日も書いた通り 祈りには大変力があります

ですが その力を知っているなら
祈ることの責任の重大さに気付くことになると思います

それは 祈りの質や量の問題ではありません

祈る内容のことです

例え話をするなら

家の庭に 大きな柿の木が1本生えているとします
庭の広さからしてこれ以上の木を植えることは出来ません

そこでもし 柿は飽きちゃったから
毎年リンゴが食べられるようになるといいな

と願うとします

その願いをかなえるためにはまず
柿の木が伐採されなければいけません

苗木のリンゴが根付きリンゴが実るまで
何年もかけて世話をしなければなりません

最初の数年は実をつけることはないでしょう

ですがもし 毎年リンゴが食べられる庭にしたい
と本気で思っているのであれば

柿を食べられなくなるという代償は勿論
育てる過程も苦労も未来への希望となり

数年後に リンゴが1つ実をつけた時には
その長年の苦労が報われたと大喜びをするのです

ですがもし ただリンゴが食べたかっただけなのに
この庭を変えたいと祈ってしまっていたとしたら

立派な柿の木がなくなり
ちいさなりんごの苗が植えられた庭を見て

こんなの私は望んでいない
この木はリンゴを実らせないじゃないか
酷い庭になってしまった

と 文句を言い始めるのです

もしそうなったら
伐採された柿の木がまず怒るでしょう
私は何のために切り倒されたのか

そしてリンゴの木も怒ることでしょう
あなたが望んだことじゃないか

ついでに言うと庭師も怒るでしょう
今回の依頼は一体何だったんだと

実際の話

祈っていた通りになっているにも関わらず
そんな大層なことを祈ったつもりはなかった
こんなに大変になるとは思わなかった

と ぼやく人を見かけると
何とも言えない気分になります

これは出エジプト記における
ヘブル人の神様への態度のことを言っています

リンゴの木を育てたいというのが
本気の願いであったのであれば
リンゴの木が立派な実をつけた時

柿の木は 私が切り倒された甲斐があったと喜び
リンゴの木は自分の使命を全う出来たと喜び
庭師は自分の仕事が良い実を結んだことを喜ぶでしょう

庭師とは 勿論神様のことです

リンゴの木を一人で育てるのは難しくても
神様が一緒に育ててくださるのですから
何も心配する必要はないのです

必要であれば

神様になら出来る ということを
神様は幾度となく示してくださることでしょう

それこそ モーセに示されたように

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