神様が引き出そうとしているもの

今日も昨日に引き続き
必要がすべて満たされた後の願いについてですが

どうやら神様が私に望んでいることは
「神様に同調せずに 私自身の思いで祈ること」
であるような気がしてきました

クリスチャンになり 神様と向かい合うことが
出来るようになってから 私は
2つのことを祈っていました

一つは 神様が私を造られた理由を
きちんと達成させてほしいという祈り

もう一つは 私が欲しいと思うものではなく
「神様が私に与えたいもの」を
きちんと受け取らせてくださいという祈りでした

クリスチャンになるまでは
死というゴールを目指して生きていたのが

永遠に神様と一緒に生きるという
全く考えたことがない価値観に代わり

神様と一緒に居れるだけで十分幸せなのに
それ以上に何を求めればいいのか
全くわからなかったのです

ですが 神様はご自身のご栄光を現すため
人にその愛とみ恵みを示される方で

それは私が思うものよりも
良いものであるに決まっています

なので 神様が私に与えたいものをください
全部お任せします となったわけです

また 世の中に対しては
神様の目線で世界を見ることを望みました

神様の思いを自分の思いとすることが
私にとっての願いとなったのです

ですが 仮に同じ目線に立ったとしても
私自身は何かを出来るわけではありません

ですから 神様の目線を教えて貰うことに加えて

この件に対して私は何かをするべきですか?
と 尋ねるようになりました

すると 祈ることを促されたので
示されたことに対して祈るようになりました

神様の御心が為されるように

そのように祈っていたわけですが

最近 どうもその先に行くように
示されていることを感じているわけです

「その先」とは何だろう と考えた時に
思い当たったのが 旧約聖書における
モーセの態度でした

不信仰なヘブル人に対して怒りを燃やし
滅ぼしてしまおうとする神様に向かって

そんなことをすればエジプト人が
「神は彼らを滅ぼすために連れ出した」と
言いますから怒りを納めてください と祈ります
出エジプト記32章参照)

もし 神様の思いと同調していたら
この時のモーセのように祈ることは出来ません

神様に流されることなく
人にも流されることなく
自分の思いで祈ることが出来なければ
とりなしの祈りは出来ないのです

モーセはこの時 人を憐れんで欲しいと
言ったわけではありません

神様の御名が称えられるようにと祈っています

とても人には無理だと思えるようなことだからこそ
神様の栄光が現れるところですよねっ

と いう祈りをすることは確かにあるのですが
しかし御心なのかなぁどうなのかなぁと
迷っちゃうのですよね

でも ダビデの祈りの態度を見ていると
大切なのは祈りが叶うかどうかじゃないと
思うのですよね…

なんというか

もっと自分を出して

と 言われているような気がします

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