神様が人を必要とされる時

自己主張をあまりせずに
流される人生を選んできた人にとって
自由とは大変恐ろしいものであるようです

学生から社会人になるときには
必ず通る道かもしれませんが

それまでは「やるべきこと」が
たくさん与えられていて
それをこなしているだけで
時間は終わっていました

人によっては それをこなすので
精一杯であったかもしれません

好きなことをやる時間を確保するため
やるべきことをきちんと
こなさなかった人もいるかもしれません

ですが それでも生きて来れました

ところが 社会人として独り立ちする時
それら全ての環境が突然無くなります

誰も指示をしてくれません
誰も何も教えてくれません

自分で何をするかを考えて
自分から行動をしなければなりません

何もしなければ今あるものを
浪費していくだけです

いずれ枯渇します

りゅうくんには 以前はビジョンがありませんでした

今勉強していることを生かして
社会で何をしたいの?と聞いても
何も希望がありませんでした

ですが 彼が話す内容から見て

りゅうくんが情熱を傾けられるものは
ゲームを作ることであると感じました

そして初めて教会に来た時に

牧師さんから預言的に祈って貰った時に

子どもを励ますようなゲームを作る

という方向性を与えられました

彼は 幼い頃にお父さんが急にいなくなりました

離婚だったそうですが 子どもたちには何も知らせず
出て行ったまま 返ってこなかったそうです

お父さんは 一緒にゲームで遊んでくれる相手でした
それが突然 何も言わずにいなくなりました

ですが彼は 教会に来る時までは
ただお父さんに対して怒りを持っているだけでした

しかし 教会に来て預言的な言葉を貰い

また 私と結婚をすることになり
子どもを授かる可能性を掴んだときに

彼の思いの中には

親子が一緒に楽しめるようなゲームを作りたい
子どもが世界や大人に対して
希望を持てるようなゲームを作りたい

という思いが芽生えました

恐らくりゅうくんは それまで
心の中に思うことはあっても
それを口に出して言うことはなく

周囲に合わせて生きていたのだと思います

話そうとは思うらしいのですが
考えているうちに話題が変わるので
話さなくていいや と思っていたそうです

話をしなくても その場にいるだけで
全てのことが流れていきました

なのでりゅうくんは 自分から自発的に
なにかをするということを
殆どすることなく生きてきたのです

絵を描いたり ゲームをしたり
ゲームの話をするぐらいでした

流されて生きてきた人にとって
自分で考えて 自分の行動に責任を持つことは
恐らく とてつもなく億劫なことであると思います

実際

今 情報発信をしたときに
そこに生じる責任に向き合うことが出来ずにいます

何かを生み出そうとすれば
それに対して人から反応があります

それに対してどう反応すればいいのか
という軸をまだ持っていないのです

私と知り合った頃に比べればましですが
褒められると怒る
欠点を指摘されると捨てる

かなり態度がなっていません

自分を卑下しているためだと思いますが
褒めるととにかく不機嫌になりますし
あれこれ否定的なことばかり言い始めます

褒めても欠点を指摘しても
ひねくれた反応を返してくるのです

ですが それが間違えた反応であることは
本人も(流石に今は)わかっています

でもにこやかに嘘をつくことも出来ない
だから面倒になって止めてしまいます

「揉まれて自分を確立させる」

という経験が圧倒的に不足しているのです

自由には責任が伴います
人との摩擦も生じます

人との摩擦を殆ど経験することなく
流されて生きてきたりゅうくんには
自分が何かを発信することに対する
責任と向き合う力が不足しています

ですが そこにこそ 神様の栄光を
現せるようになってほしいし
恐らく そこに神様はご自身の
栄光を現すつもりでいるのです

そうでなければ こんなにも
神様の御顔を見て 御声を聴くという
特権に預かれることはないでしょう

ところがそこに「自我」が出てしまい
頼りたくない 自分でやりたい
という思いが出てくる

自分でやるべきことはやらずに
神様にやってもらうべきことはやりたがる

結局 何も出来ない道を選ぶのは
何かを生み出した時の責任と
向き合いたくないからであり
それ以外の全てはただの言い訳です

言い訳を止めて 自分の思いを乗り越えて
子どものようにならなければ
神様の栄光を現すことは出来ません

もしかしたら
神様の言うことばかりを聞いていたら
自分が失われるのではないか

という恐れも 手放す必要があるかもしれませんが

いずれにせよ それら全ての重荷を
神様の前に捧げだして
担って貰えばいいだけなのです

それらを背負ってでも神様は
りゅうくんを通してやりたいことがある

その神様の思いに応えればいいだけなのです

この世にある全ての
原資は神様から出ています

人はそれを組み合わせて
新しいものを作っているだけです

その原資を生み出せる力のある神様から
自分だけが引き出せるものを
引き出す特権を頂いているのです

りゅうくんが神様から引き出せるものは
りゅうくんだけに与えられたものなのです

それを

やらないならいいよ 他の人のところに
持って行くから とは言わずに
りゅうくんが受け取るのを
待っていてくださっています

りゅうくんがやらなければ
この世に決して生まれないものです

そしてそれは

りゅうくんだけではなくて

全ての人に神様はそのように
ご計画をお持ちなんですけどね

神様と一緒に歩き始めた時

神様は その人との歩く道を
作り出し始めてくださるのです

決心して掴むだけなのです

りゅうくんは今日
こんなみことばを与えられていました

詩篇108編1節(口語訳)
神よ、わが心は定まりました。
わが心は定まりました。
わたしは歌い、かつほめたたえます。
わが魂よ、さめよ。

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