子どものような信仰

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今日の礼拝も クリスゴア牧師をはじめ
ベテル教会の皆さんがメッセージと
お祈りの奉仕をしてくださいました

今日はクリスチャンではない人も
参加される日曜礼拝だったこともあり
信仰生活を生活に適用するヒントとなるような
具体的なご自身の体験に基づくお話でした

昨日までのヒーリングスクールのお話と
今日のお話の全てを聞いて

自分には徹底出来ていない部分があるな
と感じたことがありました

それは 子どものような信仰を持つことです

ある面では私は大変子どものような信仰を持っています
預言されたことや啓示を受けたことについては
そのままをただ受け入れるのです

ですが 聖書のみことばの適用については
イスラエルの人や滅びが定められた人にも
向けられており その取捨がきちんと出来ない故に

どれをどこまで自分に適用していいのか
わからないと思っていた節がありました

預言や啓示 或いは
預言的に聖書のみことばを示される時も

それは個人的なことであるので
全部をそのままに受け入れていたのです

ですが今は どれが私たちに向けての
言葉であるか取捨出来るほどに
聖書の学びも 神様との関係も
深くなっていますし

間違えた神学というのが
どういうものであるかを
この2日で十分理解したので

今までのように聖書を読む必要もないし
今までのように斜に構える必要もない
ということがわかります

まずは今知っているみ言葉や
今のお祈りや日常生活に
その信仰を適用しようと思った時に

子どもらしさが足りてない!と思ったのです

そもそもで 私は幼い頃から
子どもらしさがありませんでした

俗にいうアダルトチルドレンだったわけです

クリスチャンになってすぐの頃は
聖書で言っている親というものが
どういうものかわからず
子どもらしくあれと言われても
どうあればいいのかわからず

子どものようでありなさいと言われると
悲しくなって泣いてばかりでした

そして

つい一か月ほど前に見た木の家のビジョンで
イエスさまがお母さんとして出て来られて
神様との関係を見た時に
やっと 親というものが理解出来たのです

神様に目を向ける(前編)
 神様に目を向ける(後編)参照

その時からやっと 子どもらしくいる
ということを学び始めたばかりなのです

今の自分は子どもらしくないところがある
と気が付いたということは

子どもらしいがやっと
わかってきた ということなのです

私に欠落している一番大きな要素は
親を頼りに生きる経験がなかったことです

しかし外に頼れるものがあったかと言えば
そうではありません

道を探して歩いている人や
さ迷っている人はいましたが
「本当の解決」を知っている人は
誰もいませんでした

故に まだ見ぬ神を思い
神様にしか私の問題は解決できない
神様しか頼れるものはないと
結論付けてここまで来たわけですが

頭では 神様にしか頼れるものはないと
わかっているし 口でも言っているのに

そもそもで頼るということが
どういうことかがわからないので
頭を抱えていた節があるのですが

子どもというのは世界がそんなに広くありません
もしかしたら世界は家族と学校だけで
本当に信頼できる人は親だけかもしれない

頼れるのが親だけであるなら
自分はどんな態度でいるだろうか
親に何を求めるだろうか

そういうのを 木の家のビジョンの中で
実体験のように学んでいたのですが

昨日の解放で 初めて
心が完全に無防備な
子どものような状態を
知ることが出来たのです

一度体験をすれば
あとは余計なものを排除するだけです

沿って行くのでも学ぶのでもなく
排除していく作業で
それこそイエスさまに
お願いするところだと思っています

私の中の一番の問題は
親は完ぺきでも 私の不完全さにより
失敗するのではないか という恐れです

これについては 今まで

祈って祈って祈り倒していました

自分が出ないように 神様の栄光だけが
現れるように とひれ伏して祈っていましたし

失敗したってマイナスをプラスに
してくださる神様を信じて祈りました

それにより 確かに結果は伴いましたが

この態度は子どもじゃないですよね(苦笑

責任を手放し 委ねること

責任はとるよって言われてるんだから
そこを信じなければいけないのですよね

勿論 それが手放せない理由は
失敗した時の嫌な体験から来るので
心の癒しの問題なのかもしれませんが

それにしたって
神様を信じない理由にはなりません

失敗してもいいからやりなさいー
と 言われるのはこの辺りかなぁ と思いました

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