イエスさまが公生涯を過ごされた時
イスラエルの多くの人が
悪霊を追い出し病を癒される
イエスさまのことを喜んでいました
ですが 彼らのリーダーであり
教師であったパリサイ人たちは
イエスさまを受け入れませんでした
イエスさまはこのことに対し
このように仰いました
マタイの福音書23章13節b
あなたがたは、人々から天の御国をさえぎっているのです。
自分もはいらず、はいろうとしている人々をもはいらせないのです。
選びの民としての役目
ですが 彼らがイエスさまを拒絶したからこそ
十字架の贖いは完了しました
神様は パリサイ人たちが頑なであることを用いて
イエスさまの十字架をご計画されたのです
ですがパリサイ人たちの役目は
イエスさまを十字架にかけるだけではありません
この世界(悪の支配)の最後 終わりの時には
パリサイ人たちの悔い改めによって
イエスさまが再臨することが預言されています
マタイの福音書23章39節
あなたがたに告げます。
『祝福あれ。主の御吊によって来られる方に。』と
あなたがたが言うときまで、あなたがたは
今後決してわたしを見ることはありません。
ここで思いを馳せることは
イエスさまを主だと認めていた
イスラエル人の存在です
彼らは二手に別れました
当時のリーダーであり権力者である
パリサイ人たちの顔色を見て
心ではイエスさまを救世主だと思いながら
黙っていた人々と
パリサイ人たちの迫害に遭う覚悟で
イエスさまに従った人々です
茹でガエルと神の勝利に預かる者
当時の「この世の安住の地」である
パリサイ人の支配から抜けて
迫害という荒野に飛び出した人は
イエスさまを信じる信仰により
永遠の命に入る約束を得ました
ですが パリサイ人たちの支配から
出ることを恐れた人たちは
(詳細は割愛しますが 聖書によると)
神の国で裁判を受けることが決められています
その時彼らは イエスさまを見捨てたと
言い渡されることになるのです
神様の国を前にして 神様に
お前のことなんか知らないと言われて
悪魔と同じ場所に連れていかれるのは
かなり恐ろしいことだと思いますが
そのように聖書には書かれているのです
このことについて 聖書では
人を恐れずに神を恐れなさい
肉の命を奪うことしか出来ない悪魔を恐れず
魂まで滅ぼすことが出来る神を恐れなさい
という表現をしています
神様による 愛と奇跡と平安に包まれた生活は
悪魔にとっては妬ましく壊したいものです
故に 悪魔はあることないこと言いがかりをつけ
人々から平安を奪おうとします
言いがかりなので 無視をするか
叱りつけて黙らせればいいのですが
言いがかりに耳を貸して同調したとき
平安は壊され 愛は傷つけられるのです
互いに愚痴や不満を言いあい
霊的 物質的 精神的な貧困と病に
苦しんでいる人に対して
悪魔は何の攻撃もしないどころか
その状態を維持できるように支援すらしてきます
それが 悪魔の支配下における安全領域なのです
緩く死や病 破壊や老いに向かっているけれども
誰もがそのように生きるものだと信じ込まされている
それが この地における安全領域です
悪魔とのいざこざがないという意味では
安全かもしれませんが
どう考えても滅びの道であり
茹でガエルになる道なのです
安全領域から出るということは
悪魔から攻撃を受ける領域に出るということです
ですが 神様の懐に飛び込んで守って頂きつつ
イエスさまの権威で勝利を得ることが出来ます
聖書により戦い方をしっかり学んだなら
恐れることは何もありません
エペソ人への手紙6章10~18節
終わりに言います。主にあって、
その大能の力によって強められなさい。
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、
神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、
主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、
また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、
また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、
神のすべての武具をとりなさい。では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、
胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。
これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。
それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、
神のことばを受け取りなさい。すべての祈りと願いを用いて、
どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、
すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。
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