法律やルールと聞くと
窮屈さを感じる人もいるかもしれません
ですが 例えば交差点に信号もなく
どちらが優先的に一時停止をするという
決まりもなかったらどうなるでしょう
まず事故が起こるでしょうし
事故が起きた時のルールがなければ
立場が弱い人が痛い目を見るでしょう
法律やルールの多くは
人を守るために存在します
知る知らないに関わらず法の下で生きている
その法律やルールの性質は
管理する立場の人の性質や考えを反映します
今の日本なら 国の法律という大きな枠の下に
都道府県や市町村という地方のルールがあり
その下に 自分が所属している
コミュニティ…会社や家庭のルールがあります
法律やルールは 自分から学ぼうとするか
誰かが教えなければ知ることが出来ません
特に子どものうちは 管理者である親が
子どもにルールを教える責任があり
子どもが法律を破った時は 親の責任が問われます
家の中で 子どもが親の財布からお金を盗み
それを注意することなく
子どもは盗んではいけないということを
学ばなかったとしても
そのまま大人になり 外で盗んだ時には
それが悪いことだと知らなかったと言っても
逮捕されてしまいます
法治国家である以上は
本人の知る知らないは関係ありません
そうでなければ法の意味がありません
知らないからと言って法が守られなければ
盗まれる人の権利を守ることは出来ません
法は 人を守るためにあるのですから
加害者が知らなかったとしても
法は 被害者をきちんと守るのです
この世の秩序
そして神様は 全ての創造主であり
神様ご自身が 真理であり秩序です
神様は義なる方で誠実な方であり
愛なる方です
神様は完全な方であり
必要があってこの世を造られたのではない
この世界は ただ神様の愛により造られました
神様は この世界の素晴らしさを
共有するために人を造られました
そして人が幸せに生きるために
律法を与えてくださいました
ですが 神様が為さったことは
それだけではありません
神様がくださった法の中には
両親を敬うこと
安息日を守ることなど
多くの現代人が一生を通して
守り続けることが困難なことも
定められています
私自身 反抗期には両親に悪態をつきましたし
忙し過ぎて休みが取れない日もありました
そういった 悪い種を撒いた結果
悪い実を結んでしまうこともあるでしょう
ですが 法を破ったものに対して
神様が定められている代償は「霊の死」です
肉の死のことではありません
大小に関わらず 一度でも
罪を犯したことがある人は
天の御国に入る権利
永遠に神様と共に生きる権利を失うのです
ですが 人には 全く法を犯さずに
生きることが出来ないことを
神様はよくご存知であるので
イエスさまという解決をこの地に
送ってくださいました
イエスさまを信じた時 イエスさまが
罪の贖いをしてくださったという
み恵みを受け取ることが出来ます
ですが 救いを受け取るだけでは十分ではなく
神様の赦しを余すことなく受け取るために
悔い改め というものが必要であると
神様は仰られています
そして 悔い改めたものに対しては
罪を犯したことを忘れると
仰ってくださるのです
とりなしという犠牲
ところが この赦しの法則には
加害者本人が悔い改めることだけではなく
被害者の犠牲によるとりなし
というものにも大きな力があります
愛に燃やされて生きるにある証ですが
ある牧師はアフリカで暴行を受け
一度は息を引き取りましたが
多くの祈りにより息を吹き返します
しかしその時 死に至るほどの傷が
まだ残ったままで 彼は大変苦しみますが
その苦しみの最中で 彼を襲った暴漢を
赦すことを宣言します
犯人は警察に捕まっていましたが
赦すことを伝えた時 警察は
馬鹿げていると大変怒りました
何故なら警察は こういう暴漢は
罰しないと再び罪を犯すと信じていたからです
ですが最終的に 警察は犯人を
釈放することを決定してくれました
その決定の瞬間 被害者の牧師にあった
死ぬほどの傷が一瞬にして癒されるという
奇跡が起きました
犯人は 牧師たちが引き取りに行きますが
悔い改めて 神を受け入れ
神学校で学ぶまでになったそうです
被害者である牧師は 命を奪われるほどの
暴行を受けましたが しかし犯人を赦したため
本来の健康と 犯人の悔い改めという
2つの報酬を神様から受けました
牧師は勿論 一人でも多くの人が
救われることを祈っていましたが
自分の命を犠牲にして 赦すことで
自分の命(怪我の癒し)を受け取り
ひとりの尊い命を救いました
正に 身体を張ったとりなしであり
命をかけて救われた犯人は
その愛に打たれて悔い改めたのです
イエスさまの十字架とは
正にそういうものでした
私たちが誰かを赦せずにいる時
心にある傷が自分自身を
傷つけたり病ませていることがある
ですが赦すことを決めた時
神様は 自分自身の回復だけではなく
相手の命をも救ってくださるのです
神様の愛にある美しさ
少し前 赦すという宣言の意味という記事で
全ての人を赦すお祈りを促され
神様の大いなる愛を感じたことを書きました
実はあの日以来 よく神様に
私は何を赦すべきですか?と
聞くようになったのですが
自分が救いたいと思っている人に
傷つけられ 尚も赦すという姿は
イエスさまの救いなしには
なかなか受け入れることが困難な
姿であると思います
創造への召しの中で
マコトフジムラさんが仰っている
トラウマの奥にある美しさ
犠牲の愛という美しさというのも
同じことであると思います
人の力では 難しいかもしれません
ですが神様はそれを成し遂げてくださり
そして今 私たちの中に住んでくださっている
それはとてつもないことであるように思います
私たちは弱いです
とても許せないと思うかもしれない
それでも その弱さに
神様が現れることを祈ります
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