これは はっきりと誰かに教わったとかではなく
周囲の人たちや 教会にメッセージに来られる
ビジネスマンクリスチャンのお話を聞いていて
感じることなのですが
社会において仕事をする召しがある
クリスチャンには大きく分けて
2種類いると感じています
それは
この世に出ていき 周囲を
神の国の文化に塗り替えていく人と
神様が与えられた仕事に献身する人です
祈りでこの世を塗り替える人
多くの人は 前者の「この世に出ていき
周囲を神の国の文化に塗り替えていく人」
に該当すると思います
今働いている環境に 神の国の文化を持って行き
その場を神の御国へ染め変えていくことに
召された人たちです
問題に対して祈ることで神様に介入してもらったり
自分自身が神様に作り替えられることで
周囲の人に神様への関心を持ってもらい
福音へと導く という召しがある人たちです
とある牧師さんのお話では9割近い
クリスチャンがこちらに該当するそうです
神に献身する人
そして残りの1割が牧師 宣教師 伝道師として
神様が与えられた仕事に献身する人で
献金により生計を立てる人のことを
この時は仰られていました
ですが私は 牧師 宣教師 伝道師などの
いわゆる役職者とは別の形で
「神様が与えられた仕事に献身する人」が
存在しているように感じています
例えば森永製菓の創始者 森永太一郎などは
その好例のように思います
森永太一郎の伝道
何をやっても上手くいかず落ち込んでいた時
たまたま貰ったキャンディーの美味しさに
感動して洋菓子職人になろうと渡米し
渡米した先でクリスチャンになり
伝道師になりたい!と思いを与えられ
帰国して身内に福音を伝えようとするも
相手にされないどころか離縁されてしまい
失意の中 再び渡米し
酷い差別の中でなんとか
製菓の技術を学び
帰国して屋台でお菓子屋さんを始めますが
その時の屋台の屋根には
「キリスト・イエス罪人を救わんために
引用元:キリスト教人物伝 森永太一郎(1852-1910)
世に来たりたまえり。
義は国を高くし罪は民をはずかしむ」
と書かれており有名になったそうです
希望の先にあったビジネス
森永太一郎は まず最初に
失望の中でお菓子職人になる
という希望が与えられますが
導かれた先でクリスチャンになり
伝道師になりたい!という
新たな希望を与えられました
しかし伝道師になることには失敗し
再びお菓子職人を目指しますが
それを自分のためのビジネスにはせず
イエスさまを伝えるための
ビジネスとしたのです
森永太一郎は 神様の御手により
新しいビジネスを創造して
神様の栄光を現すご計画に対して
「献身」したのであり
この世を(祈りにより)緩やかに
神の国の文化に塗り替えていくことに
召された人とはニュアンスが違い
この世に対して 神という存在を持って
切り込んでいく召しが与えられた人であり
そこには創造が伴うように感じます
また 目的が神様のためであって
自分の喜びのためではないことも
特徴的だと思います
言うなれば
子どもの頃からお菓子職人に憧れていて
祈って祈って 人とのご縁や
良い先生との出会いが与えられて
お菓子職人になれた!神様ありがとう!
という栄光の現し方ではなくて
神様から 突然お菓子職人になろうという
希望が降ってきて 渡米までしてしまい
物凄い苦境の中で揉まれまくるのだけど
でもその希望を掴んでいるから
どんな苦しみの中でも耐えられて
神様の栄光を現すために
神様と永遠に歩き続ける という感じです
「イエスさまに似た者」という概念
神様に突然満たされて
その道に行こうと歩き始めた人たちの
お話(証)を聞いていると 漏れなく
どうしてこんな苦しみを通るのだろう
神様なぜですか!!と叫ぶような
苦境を通るのだけど
その苦しみの中で神に出逢い
新しい創造が為されることを目撃します
今日は その出逢いを「美」と表現される
アーティストのマコト フジムラさんが
礼拝でメッセージをしてくださったのですが
創造主である神は
私たちが必要だから造られたのではない
必要ないものを 愛を持って創造された
それは 人に創造させるためだと
フジムラさんは語られました
そして そのイエスさまこそが
創造主であられると聖書には書かれています
コロサイ人への手紙1章16-17節
万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、
位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。
これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。
彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。
フジムラさんの師がこう語られたそうです
救い主としてのイエスさまを
あなたは受け入れてましたね
では 創造主としてのイエスさまを
あなたは受け入れていますか?
救い主としてイエスさまに似た者となる
という思いを抱いている人は多いですが
創造主としてのイエスさまに似た者となる
という概念は受け入れていますか?
という問いかけです
創造による伝道
遠藤周作の「沈黙」という作品は
正に 弱さの中で神と出逢うことを
文学という作品で描いたものなのだそうです
日本のキリシタン禁令における
宣教の失敗を描いた作品であることから
日本人クリスチャンには敬遠されていた
作品であるそうなのですが
しかし 弱さの中にこそ
神様が現れるという事実が
はっきりと描かれており
そのことに励まされる人が多くいたために
この作品は多くの人に読まれました
遠藤周作自身 人生において
大変な孤独と苦しみの中に
生きた人なのだそうですが
遠藤周作の影響を受けた
当時の日本人純文学者のクリスチャン比率は
世界一であったそうで
文学という領域での創造により
彼はイエスを伝えることに成功したのです
日本人にある美意識
イエスさまが示された「犠牲の愛」を
日本人は特に色濃く持っていて
特別な召しが日本人にはあると
フジムラさんは感じられているそうです
確かにその視点で日本人の働き方を見ると
色々と思うことがありますし
日本人がモノ作りという領域で
世界に知られていることも
神様のご計画と関係があるのかもしれませんね
—
尚 「沈黙-サイレンス」はハリウッド映画となり
日本でも2017年1月に公開されるそうですので
ご興味ある方はチェックしてみてください
フジムラさんも関連書籍として
「沈黙と美」という本を出版することが
決まっているそうです
詳しくはフジムラさんのツイッターで
アナウンスされると思うので
こちらもチェックしてみてください
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コメント
コメント一覧 (1件)
[…] 創造への召しの中で マコトフジムラさんが仰っている トラウマの奥にある美しさ 犠牲の愛という美しさというのも 同じことであると思います […]