クリスチャンになってすぐの頃の話ですが
独り暮らしの実家の母が緊急入院をしたため
入院費を郵便局から引き出して欲しい
と依頼をされたのですが
これとこれを持って何時までに
郵便局に行けばお金降ろせるから!
と 母が説明する内容が それじゃ絶対
代理人にお金を降ろさせてくれないだろう
というものだったのですけど
その電話を受けた直後に神様から
そこの郵便局で尋ねなさい と示されたので
たまたま目の前にあった郵便局に飛び込んだ
すると ものすっごーい親切丁寧な局員さんが
詳細を教えてくれた上に 書類までくださった
お陰で不安もなく 万全な準備をして
指定の郵便局に行くことが出来たのでした
神様の目線
お金のことだし 今後母が妹に同じことを
依頼する可能性もあるだろうと思ったので
母に あなたの説明だけでは不足していて
このような書類が別途必要だったよ
と いうことを念のため伝えました
しかし 母はプライドが高く
人から学ぶことが苦手な学者タイプで
物凄い勢いで逆切れされました
うわもー面倒くさいなぁ と思いつつ
いつものことではあるので
またか と思う程度だったのですけど
神様が それでいいんだよー
と 仰るのです
その時は雨が降っていて
どんよりとした曇り空だったのですが
突然目の前の雲が切れて光が降り注ぎ
理由もなく涙が溢れました
「それでいい」の意味はよく分かりませんでしたが
素直になれないけどお母さんは
あなたのことを思っているよ
ということを感じました
ちなみに その後気付いたことは
母は 口ではなんやかんや言いつつも
後できちんと教わったことを覚えていて
尚且つ 自分は最初からそれを知っていた
と記憶しているのです^^;
プライドってほんとめんどくさい…とは思いますが
重要なことは 間違えた知識で
周囲を混乱させないで欲しい ということなので
学習してくれているならいいか と思いました
今思うと 神様が仰った「それでいい」は
母の思いについてだけではなく
きちんとあなたの思いは伝わってるから
大丈夫だよ という意味もあったのかもなぁ
と 思います
言葉は思いから出る
どうしてそんなことを急に思い出したのかというと
今日 りゅうくんが遅刻ぎりぎりで
自転車で駅まで移動していたのですが
自転車置き場から駅まで行く間に
電車の時間を調べる余裕はないだろうから
何時の電車なら間に合う ということを
メッセンジャーで伝えようと思いました
ですが書きながら
こんなの見ずに走ってくれると良いなぁ
駅についてからこれを見て確認するのでいいよな
と 思っていたのです
すると暫くして
走ったから1本前に着けた
メッセージ見てたら次のでもいいかって
安心して歩いて間に合わなかった
と返信が来たのです
これ 本人には悪気がないどころか
教えてくれてありがとうと思っているんです
それはわかっているのですけど
でも こんな言われ方をしたら
メッセージがあるせいで遅刻したかも
と言われているような気になります
走って良かった 神様だねってことを
言いたいだけなんだと思うのですが
どうせ神様が守ってくださったのだろうから
混乱させるような情報を送るのは
お節介だったな と 思いました
が
すぐに神様から それは違う
という示しがありました
心配をしてメッセージを送ったことは
きちんとりゅうくんが間に合ったことに
役立てている というのです
確かに 思い当たることはあります
私がりゅうくんの帰りの時間に
雨が止むように真剣に祈ったときは
きちんと雨が止んだり小ぶりになるのに
りゅうくん一人だけが祈ったときには
雨が止まず レインコートを着たために
泥跳ね被害から守られたから返って良かった
等々
祈ろうと思う心や 何かを行動しようという心が
自分から出たものではなく
神様から与えられたものだと
感じることは多々あるのです
今回の件がどういう意味で
お役に立てているのかはわかりません
ですが確かにメッセージを書きながら
こんなの見ずに走ってくれたらいいな
後でこれ見て安心できるならそれでいいな
と思い その通りになったのです
神様は 私の願った通りにりゅうくんを
間に合わせてくれているのです
結局 踏みにじるのは人の言動だということです
豊かさに心を明け渡す祈り
りゅうくんは神様に対して謙遜ではありますが
受ける恵みの大きさをプレッシャーに感じ
それを踏みにじりダメにしようとする
発言をすることが多々あります
というか それで実際に踏みつぶすことも多々あります
ですが そのことは自分にも身に覚えがあるのです
クリスチャンになってすぐ 神様から連続して
何度も何度もあり得ない と思うような
み恵みを貰い続けてしまったとき
最初の1~2回は 素直に喜んでいたのですが
3回目ぐらいから何だか不安になってきて
自分のミスでそのみ恵みを
台無しにしてしまったのです
物凄い凹みました
不安に思ってしまい 疑ってしまったことを
物凄く深く反省して 悔い改めのお祈りをしました
本当にごめんなさい
み恵みをダメにするなんて本当にあり得ない
ですが私のこの不安に思う気持ちは
自分ではどうにもできないので
神様がこの思いを取り 私の地境を広げてください
と すごくすごく祈りました
その後は気付けば一切 不安を抱くことはなくなり
神様が祈りを聞いてくださったことに感謝しています
他にも 例えば占いや風水 偶像の祈りなど
神様が忌み嫌われる知識についても
知って 覚えてしまっているものですから
ふとした時に思い出してしまうのです
その度に 神様 この記憶を本当にどうにかしてください
消し去ることは無理でも思い出さないように
どうか助けてください と
思い出してしまう度に必死に祈っていました
これには時間がかかりましたし
勿論記憶が消えたわけではありませんが
それでも 思い出さなくなるようにはなりました
これは癒しについても同じです
怪我や病気に対して
治るのにこれぐらいかかるであるとか
これが効く これをやったら悪化する等々
たくさんの情報や知識を持っています
だけど それら物理法則を超越して
神様は癒すことが出来る方だ!ということを
信じて癒しを受け取らなければいけない
そのことを 手を変え品を変え
日々多くの面に感じています
天の御国の文化を自分のものにするには
神様による体験と時間が必要なのです
神様が与えたいもの
よく 癒しのお祈りに関して
祈ってもらったときは良くなったけど
帰ったらぶり返してしまった
という話を聞くのですが
これこそ正に 人の思いで
神様の奇跡を台無しにしてしまう例です
ですが そのこと自体は仕方がないと
神様はご存知でいらっしゃる
それに対して神様は 自分の思いや努力で
乗り越えようとするのではなく
祈り向かってほしいと思っていらっしゃいます
自分の思いを変えることや
記憶を消し去ることは不可能です
ですが 神様の方を向くとき
神様のことだけを見つめる時
神様に祈り向かう時に
神様は 奇跡を下さる方なのです
自分の不信仰で台無しにした と凹んで
自分には愛される資格がないと思ったり
自分の努力(洗脳)で変わろうとすることを
神様は望まれていません
神様 これいらないです取って!と叫ぶ時に
神様はきちんと取り去ってくださるのです
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