結論から言ってしまうと
子どものような人に神は愛を注がれます
何も持たない人 社会においては
役にも立たぬものと軽く見られる者
或いは人生を破滅させてしまった者
自分の力では取り返しがつかないところまで
堕ちてしまった者にも 神は愛を注がれます
人の力や社会的な仕組みでは
どうにも救うことが難しいもの
神様は そういう人たちにこそ
愛とみ恵みと憐れみを注がれます
そして 愛が注がれた時
その人の命にある神の目的が
その人の人生に現れることを見る
周囲の人は その様子を目の当たりにして
神の素晴らしさを褒めたたえる
救いとは 神様の栄光のためにあるのです
弱いものに神は愛を注がれる
神の愛が豊かにあふれるところでは
そういった 何も持たない人たちが
多くを受け また与える喜びを知っていて
真の豊かさを知っている
御国は そういう人たちのものだと
聖書には書いてあるのです
無垢な子どもたちは ただ
純粋に神様の愛と奇跡を求めます
自らの力に諦めたものは
それでも自分が愛されるということに
純粋な驚きを覚えます
心が柔らかいものに
神様はご自身を現してくださる
そして 感謝と喜びを知るものは
豊かにそれを分け合うことが出来るのです
良い管理者にも神は愛を注がれる
多くを持つ人について
神様は お金持ちが救われることは
ラクダが針の穴を通るよりも難しいと評された
ですが 実際には多くを持ちながら
神様のご計画に用いられる人もいます
良い管理者 と言われる人たちです
多くのタラント(お金・賜物)を預けられ
それを何倍にも増やした人は主人に褒められます
また
その家のしもべたちを任されて
食事時には彼らに食事をきちんと
与えるような忠実な思慮深いしもべは
幸いである という記述もあり
お金を稼ぐことを悪としているのではなく
地の管理者として資産を預かる身として
身を立てている人を神は喜ばれており
自分が富の所有者だと勘違いをするものに対し
イエスさまは「救い難い」と仰られたのです
神の子とされる時に立場は変化する
クリスチャンのアイデンティティは
神の国の住人であり
この地上においては寄留者です
洗礼を受けた時に肉の自分は死に
天の国の住人としての新しい命を受け
この世においては寄留者となります
洗礼を受ける前までは
この世の支配下に囚われた身でしたが
神様から一時的に地のものを預かり
管理するように召された異邦人となります
所有者というアイデンティティから
管理者というアイデンティティに
変化したことを柔軟に受け入れるとき
良い管理者を 神は大いに祝福されるのです
管理者に与えられた仕事
使徒行伝(使徒の働き)にある
「使徒」 という言葉の語源は
当時のイスラエルを支配していた
ローマ帝国の役職名だったそうです
ローマ帝国は 地を侵略した時に
使徒と呼ばれる役職者(監督)を送り込み
町並みから文化から言葉までも
全て ローマと似たものに作り替えて
皇帝がその町に視察に行く時に
備えていたのだそうです
イエスさまが 弟子を使徒と呼んだ理由は
神の国の文化を地に現して
イエスさまが再臨される時に
備えるように という意味を
含んでいるのだそうで
管理者に与えられた仕事は
この御国の文化を地に築きあげることですが
それは 肉の力では為し得ません
祈りによってのみ もたらされます
主人が小さなものに遣え
世において取るに足らないものに
必要の満たしと愛が注がれ
この世の常識に悩み苦しみ
心身ともに疲れ果てた人が
命を受け 癒されていき
神様から多くを預かるものが
より多く増え 地を勝ち取り
霊と誠で神を礼拝するものが
毎週のように父の家に集まり
互いに愛し合って憩いを得る
それが 神の国の文化であり
それが 自分が住まう場所の常識となる
人には無理ですが
神様には可能なのです
神の臨在 聖霊の満たしに
飢え乾く人…心の貧しい人 は幸いです
天の御国はその人のものだからです
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