神様との関係が上手くいっていない人や
教会の中で浮いてしまう人
聖霊による一致が出来ない人の
共通点に気が付きました
それは 愛を第一にする人です
え?クリスチャンにとって
愛が一番大事なのではないの?と
思うかもしれませんが 違うのです
イエスさまが一番重要だと仰ったのは
「神様を」愛すること なのです
そして人を愛することは二番であり
自己愛については全く語られていません
神への愛 それは愛という単語よりも
忠実さ という言葉で表現した方が
適しているのです
自分を一番にする人はこう言います
神様は私のことを愛しているのでしょう?
だったら私の思いを尊重してくれるはず!
でも それはちょっと違うんですよね
そうではなく
神様 この状況に私はもう耐えられません!
助けてください!と祈ったときに
神様は助けてくださいます
もし助ける人がいなければ
あなたが助ける人となりなさいと
任命されてしまいますけども…
ですが
神様は私を愛しているのだから
私の思い通りにならないのはおかしい
という論調は 大変的外れなのです
聖書には このように書いてあります
マルコの福音書12章29-31節
イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。
『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。
心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、
あなたの神である主を愛せよ。』次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』
この二つより大事な命令は、ほかにありません。」
一番は神様を愛すること
二番は人を愛することです
自分の思いを尊重することを良しとする言葉は
聖書のどこを読んでも出て来ることはありません
むしろ 自分の思いを差し置いて
神様の思いを第一にする生き方を
イエスさまは貫かれました
そして その生き方こそが
神様に愛される理由であるとも述べています
ヨハネの福音書10章17節
わたしが自分のいのちを再び得るために
自分のいのちを捨てるからこそ、
父はわたしを愛してくださいます
また いのちを捨てるという例えは
弟子の心構えとしても仰られています
ルカの福音書14章26節
わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、
そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、
わたしの弟子になることができません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、
わたしの弟子になることはできません。
神様は 自己中心的な思いを捨てて
自分の十字架=神の召しに忠実である者を
祝福される方なのです
神様の愛を知り そして従順を学ぶ過程は
雅歌からも見ることが出来ます
雅歌1章6-8節
私をご覧にならないでください。私は日に焼けて、黒いのです。
私の母の子らが私に向かっていきりたち、
私をぶどう畑の見張りに立てたのです。
しかし、私は自分のぶどう畑は見張りませんでした。私の愛している人。どうか教えてください。
どこで羊を飼い、昼の間は、どこでそれを休ませるのですか。
あなたの仲間の群れのかたわらで、私はなぜ、
顔おおいをつけた女のようにしていなければならないのでしょう。女のなかで最も美しい人よ。あなたがこれを知らないのなら、
羊の群れの足跡について行き、羊飼いの住まいのかたわらで、
あなたの子やぎを飼いなさい。
まだ1章の6節目です
神様と出逢い 神様の愛を知った直後のことです
突然 周りの人たちが自分に仕事を指示してきた
しかも 自分の畑はそっちのけにさせられた
なぜこんな目に遭わなければならないの
と訴えると
その傍らで子やぎを飼いなさい
と窘められるのです
神様は 確かに愛です
従順に出来ない人のことも愛しておられます
しかし愛しているからこそ育てようとされます
その時に 放蕩息子のように
出ていくのは本人の勝手ですが
しかし神様はとても悲しまれて
帰ってくるのを夜な夜な待ち続けるのです
甘やかして 何も出来ない人間にすることや
本人の意思を尊重して不幸になる道へ行かせることは
決して愛ではないのです
ですから 人が間違えた思いを抱く時
神様はその思いを決して尊重されません
教え育てて 間違えを正すことも愛なのです
イザヤ書55章8-9節
わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、
わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――天が地よりも高いように、わたしの道は、
あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、
あなたがたの思いよりも高い。
最高のものを用意されて
それを受け取ってくれることを
神様はいつもお待ちなのです
そして
それを受け取らずに苦しむ人については
放蕩息子の父親のように悲しんでおられる
「神様を一番に愛する」と考えた時
悲しむことをすることは 愛じゃないですよね
神様から愛されていることを感じれない
神様を愛することを拒否すれば
神様がどんなに愛を注いでも
感じることが出来るはずがありません
まずは 神様の愛を受け取ること
愛を感じる最初は そこなのです
書いてみると当たり前のようなのですけど
愛を感じたい でも愛を受け取りたくない
という葛藤にいるということを知るだけでも
かなり違うと思います
その上で
どうしたいのかを求めてみてください
神様の御心に叶うものなら
求めたものは必ず与えられます
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