預言 というのを受けたことはあるでしょうか
預言という単語自体は
神様から預かった言葉という意味で
今 その時に 受ける人に必要な
「神様から」のメッセージです
占いや予言とは違います
イエスキリストを告白する霊以外が
語る言葉は 預言ではありませんので
吟味をすることが必要です
(ヨハネの手紙第一4章参照)
神学校の授業中に ある動画を見ました
それは世界的にも有名な預言者が
カンファランス中に ある家族に対して
預言をするシーンでした
この会場に〇〇〇という名前の人はいる?
〇〇〇という数字に心当たりはある?
その預言者はまず 神様が誰について
語ろうとしているのかを
受けるべき人しか知らない情報により
特定していきました
自宅の住所 誕生日や記念日 子どもの名前など
本人にしかわからないような情報を
たくさん並べることにより
神様は全てご存知だということに
心を開かせてくださいます
その上で 今神様がその家族に対して
語りたかった 私たちが知りえないことを
教えてくださり 希望を与えてくださいます
その動画では 亡くなった子どもは
イエスさまの横で元気にしていて
あなたたちはその悲しみから卒業して
その子が本来やるべきだった神様の召しを
代わりにやる季節に入る…と示されていました
神様の預言は 励ましです
生きるために必要な命の泉のようです
私も 何度か預言を受けています
預言者さんにとっては
全く意味が分からないビジョンが
私にはわかるということもあります
また その言葉から
神様が何を伝えようとしているのか
意味が分からない ということもあります
私の場合は「神様があなたを綺麗にする」
という言葉がそれでした
しかも2年越しに2度も同じことを言われました
学んでいくうちに それは
肉体 心 霊 全ての領域において
余計なものを取り除くという内面的な意味と
服や持ち物 環境 容姿といった
外面的な意味の両方を指しており
それはまだまだ継続中であると感じますが
大切なことは 預言とは受けて終わりではなく
その預言に込められた神様のみこころを
求め続ける必要がある ということです
強い思いが与えられて
祈り続けることもあるかもしれませんし
確信を持って行動に移るのかもしれませんし
思い巡らす でも良いかもしれません
私が受けた「綺麗にする」という言葉も
自分の人生全体にかかっており
あまりにも範囲が広かったために
様々な角度から祈る必要があり
気が付くたびに祈るのですけど
祈ったことは必ず実現する中で
神様が私をどのように作り替えて
神様と私との間でどのような関係を
築こうとされているのかを
少しずつ理解しています
このことも まだ継続中です というか
生涯追い続けるテーマのようなもので
あるとも感じています
また 神様は 私に
世界創造のビジョンを見せてくださり
本当に全てが良い そうは思わないか?
と仰られました
また イエス様が編み物をされているビジョンに
私のことをこのように一目ずつ丁寧に
造られたというメッセージがあったりと
「綺麗にする」という言葉には
神様が造られたものは
全てが本当に良くて美しい
という思いが込められていると感じ
神様はことあるごとにそれを教えてくださいます
私の目線を そこへ引き上げようとされており
その先に 神様のご計画があるのだと感じます
それが何かはわかりません
ですが 自分の心がそれが正しい
それが欲しいと求める
人は なんやかんや言っても
心が揺り動かされることに対してしか
行動をする(行動を続ける)ことが出来ません
頭でどんなに理解をしたところで
心が揺り動かされなければ
行動し続けることは困難です
自分の思いとは全く関係がありません
むしろ「綺麗」という言葉に対して
私は抵抗すら感じていました
しかし それが善良なる神様の導きで
尚且つ 良い方向へ行くイメージしか
感じることが出来ないのであれば
良いと思うものを心の中心に迎えて
それに忠実に生きることが出来るのなら
それに勝る幸せはないと感じます
(今でこそ言える という話ではありますが)
ともあれ
預言 というのは生きる希望です
時には 自分の中にある不要なものを
そぎ落とすために入れられるメスのように
鋭く切り込んでくることもあります
全てを解決する一つの指針であることもありますし
本当に伝えたいことを伝えるための
前準備であることもあります
ただし 冒頭に書いたように
イエスキリストを告白しない霊により
混乱を来たらすこともあるので
預言を受けるための霊的学びも必要ですし
霊的な環境や心の掃除も必要になることがある
それらの学びや掃除が終わっていないために
全く預言が心に響かないこともあります
神の預言は 聖書の内容に沿っています
そのことから 神の言葉であることがわかります
ですから聖書を読むということは
預言と正しい形で向き合うのに
とても助けになります
ともあれ
神様が与えてくださった「希望」
そこにたどり着くまでには
何年もの月日が掛かることがありますし
時には更なる助けや言葉が
必要になるときもあり
それは 求めれば必ず与えられます
その過程全てに 神様の栄光が
現れることを祈ります
人の力により それが
歪められてしまうことがありませんように
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