イエスさまは ユダヤ人に対して重荷がありました
重荷というのは その人たちのために
何かをしたい 何かをしなければという
使命感のようなものを言いますが
イエスさまの場合はきっと
明確に「あなたの範囲はここ」と
神様が示されているのをご存知だったのでしょう
異邦人であるカナン人が
イエスさまに助けを求めた時
一見 冷たいとも取れる対応をしています
マタイの福音書15章22~28節
長いので要約しますが
カナン人の女は イエスさまに
娘が悪霊に憑かれているので
助けてほしいと叫びながら
一行について歩いてきました
弟子たちが イエスさまに
あの女を帰してやってくださいと願いますが
「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊
以外のところには遣わされていません。」
と答えられました
また イエスさまの前でひれ伏すカナン人の女に
「子どもたちのパンを取り上げて、
小犬に投げてやるのは良くないことです。」
とも言われています
ご自身がなされることには範囲があり
それ以上のことをするのは良くない
と 仰るのです
と言っても この後カナン人の女の
謙遜な信仰に感動したイエスさまは
カナン人の女の娘を祝福し
悪霊は追い出されました
当時 カナン人はイスラエル人から
「犬」と呼ばれ蔑まれていたそうです
しかしイエスさまは「小犬」と仰った
そこに神様の慈愛が含まれている
それを感じ取ったカナン人の女は
「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも
主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」
と 自分自身を低くして 尚懇願しました
それでイエスさまは その態度と信仰を褒めて
願った通りになります と祝福されました
このお話で ひとつはカナン人の女から
信仰の態度を学ぶことが出来ます
ですがもう一つ
イエスさまが示された
「重荷を背負う範囲」というのは
とても重要な概念です
自分自身が背負う分以外に
目を向けてしまえば
本来背負わなければいけない重荷に
向かう時間がなくなってしまいます
すると 自分が為すべきことが出来なくなる
もし 自分に助けるべき人が
定められているとしたら
余計なことに取られている限り
その人は助からないわけです
イエスさまは聖書の中で
自分の十字架を背負って
わたしについて来なさい
と 仰っています
人の重荷を背負うということは
神様から与えられた仕事を
サボって人のお節介をしている
ということになります
自分自身の重荷は何なのか
自分が神様から示された
今日やるべきことは何なのか
その範囲を超えずにいても
その日の労苦は十分あると
イエスさまは仰います
イエスさまを受け入れて 突然
背負っていたものが軽くなりすぎて
こんなに楽でいいのかと
もし不安になることがあるとしたら
この聖句を思い出してください
マタイの福音書11章28~30節
すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、
わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、
あなたがたもわたしのくびきを負って、
わたしから学びなさい。
そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、
わたしの荷は軽いからです。
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