肉の欲と霊の命

最近 クリスチャンになったのに
なんかすっきりしない
もやもやする的な話を聞くことがあり

自分の体感することを伝えるべきか否か
悩んだのですけど ローマ人への手紙を
組み合わせれば説明しやすいな

と 思ったのですが

その人に伝えるのはタイミング逃したのでw
ここに書いちゃいます

参考 ローマ人への手紙5章~6章

http://web1.kcn.jp/tombo/v2/ROMANS05.html

http://web1.kcn.jp/tombo/v2/ROMANS06.html

まず、クリスチャンになる前は
罪の支配下にありました

支配される、というのは
死に至るとわかっていることを
やりたくなくてもやってしまう
やりたくないのにやらされる

抵抗が出来ない 選択の余地がない
状態のことを言います

体に悪いけど止められない
良心は痛むけどお金のために仕方がない

という わかりやすいものもあれば

本当はやりたくないけど
生活のために仕方がない

等々 ストレスを感じる状態に
縛り付けられることも含まれる

そこから脱却するためには
お金が必要であるとか
良い出会いが必要であるとか

或いはノウハウであるとか
考え方や 知恵知識であるとか

もっと良い依存先(本人は
解決策だと思っているだろうけど
ほんとは依存先です)を探して
何かに頼ろうとするけど

その頼るもの全てが 問題を解決しない

そのうち 人生とはこんなものだ
こうやって死んでいくのが人生だと
達観してしまうこともある

そういうのが 神様を知る前の状況で

クリスチャンになってからは
神様に心から叫ぶことで
そういった状態から救われる

依存して良い唯一の存在が
創造主であり イエスさまという
罪の解決をされた方であると

知ったわけですけど

しかしクリスチャンになっても
罪を犯す性質を持つ弱い肉は
まだ持っていますし

クリスチャンになれば今まで以上に
罪の誘惑がやってきます

敵は 人が神様に救われることが
一番嫌であるわけですから
誘惑はより強くなります

ですが 何が良いことで悪いことかを
知る知識(聖霊の導き)と
神様の権威をもって その誘惑に
Noと言えるようになる

そしてNoと言えば敵は退散する

それがクリスチャンの特権であるのです

しかし 全てから自由になった
クリスチャンには 罪に対して
Noと言わない自由も持っています

言っちゃっても 後で後悔して
悔い改めます ごめんなさい!と
心から神様に言えば許されるという
特権も持っています

しかし 悔い改めずに死を選ぶ自由も
クリスチャンにはあるのです

ただ そんな選択はさせないよー
という 圧倒的な神様の愛と恵みにより

ほとんどのクリスチャンが
神様大好き 神様が嫌がることは
したくないです きちんと天の御国で
あなたと一緒に過ごしたいです

と 思うから クリスチャンは
悪いことから離れる選択をするのです

一方

イエスさまを知るまでは
敵の誘惑に遭えば それを
断ち切ることがとても難しかった

何故なら権威で言えば
人よりも敵の方が上だから

…ちょっと脱線しますが

敵は 力のない 驚異でもない存在のことは
わざわざ誘惑することも少ない(らしい

放っておけば自分の罪で自滅するような人や
貧困に留まっているものなど
世に影響力がない人ほど相手にしないそうです

でも 普通の人であっても
大きな権力や大きなお金を得た時には
悪霊が攻撃に来ることがある

それで 成功しかけたのに失脚する等々
なかなか一線を超えることが出来ない

それに対して 著名人の中には
「成功している人は 稼いだお金を
人のため、慈善事業のために使う」
という法則を見いだして その呪いから
抜け出している人も多いけど

それこそ そのことは聖書…
マラキ書に書いてあるわけです

マラキ書3章8-11節
人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。

十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。――万軍の主は仰せられる。――わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。
わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が上作とならないようにする。――万軍の主は仰せられる。――

そういったことも含めて

聖書の約束やイエスさまの御名の権威は
あらゆる呪いを断ち切ることが出来る

しかし 肉の弱さについてだけは

神様に求めて強めて貰ったり
きちんと聖書を学んで自分の意思で
良いものを選んでいくようになるしか
解決策はないわけです

神様は 自分の意思で神様を選んで欲しいから
場合によっては助けてくれません

誘惑されたって どっち選ぶの?と
ご覧になってるだけのこともあるのです

それは 知識が増えれば増えるほど
立場があるものになればなるほど
どっち選ぶの?ってご覧になることが
多いと思います

それこそ 千年王国が来たって
誘惑する霊的な敵はいなくなるけど
人の肉の弱さがなくなるわけではない

だから 千年王国に入ったら
100才にならずに死ぬものは
呪われたものだと言われるようになる

要するに 自分の罪で死ぬものは
悪魔の誘惑がなくなったって存在すると
聖書の中で預言されているわけです

自分の肉の弱さとの戦いは
クリスチャンになったって続くし
敵の誘惑がなくたって続くのです

ましてや 敵が大活躍中のこの時代

イエスさまの生き方から
新約聖書の手紙から
誘惑されないように自分を守るために
学び続ける必要があるし

敵の只中で苦しんでいる人を
救う側に立とうとするときに
霊的カバーというのが重要になる

一人でやっていればすぐに
弱さを突かれるだろうし

ましてや こういうことすると
呪われるよ って書いてあることをやれば
あっという間にやられてしまうわけです

罪を犯すこと
律法を犯すこと
(偶像崇拝をする、親を敬わない、
安息日を守らない、盗み殺し等々)
預言を軽んじること
十一献金をしないこと
兄弟姉妹を悪く言うこと…等々

すっきりしない と言っていた人は
預言を軽んじる発言をしていたので
そのせいだろうなぁと思ったのですが

しかし 預言嫌!聞きたくない!

と 言っている人にそれ
(預言を軽んじてはいけないって
教えてなかったっけ…?)を
面と向かって言うわけにもいかず

神様 この人が救われますようにと
とりなしの祈りをするしかないわけです

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