例え神様による素晴らしい解放があっても
教えがなければ
古い考えに戻っていってしまう
教えがあっても 神様による
素晴らしい解放がなければ
ただの苦行で宗教でしかない
というお話です
昨日の神学校のお話
聖霊が下ってきて 多くの人に触れられ
多くの人が一時期に神様に立ち返る現象を
リバイバル
と 言うのですが
リバイバルというのは
キリスト教の教えが根付いていながら
表面的な教えだけが継承されて
きちんと礼拝に行く人が少なかったりと
神様への情熱が薄くなっている土地に
神様を切に求める飢え乾きと
悔い改めの祈りが起こって
そこに聖霊の火が注がれる
と いったものを指すべきで
キリスト教の教えがないところに
聖霊の火が注がれたとしても
神に立ち返った人を弟子にして
きちんと教え導く教会が起きていないと
折角 神様に立ち返った人たちが
こぼれ落ちていく という話がありました
聖書にもありますね
折角 エジプトから救われたのに
イスラエルの人たちは 主なる神を
「数々の神の中にいる奴隷解放の神」
と位置付けて 他の神を拝んだ
律法の最初の最初に
あなたには わたしのほかに
ほかの神々があってはならない
と 神様が言われたにも関わらず
教えを伝える人がいなかった為です
また 偶像崇拝の土地に入るときに
神様は 彼らの習慣を真似てはいけない
他の神に遣えてはいけないと
警告しましたが 人々は
簡単に偶像を崇んでしまった
聖書を伝承するイスラエル人ですら
そうなのですから
元々 偶像や占いが日常にある人たちは
折角神様に出逢っても そこから
引き離す力に流されてしまいやすい
だから 教えることは大切なわけです
奇跡を追い掛けるだけだと
あそこの教会でこんな奇跡が起きた!
こっちの教会ではこんな奇跡が!
と 追い掛けることになり
それは神様を求める心ではなく
現象を求める心に過ぎないわけです
でも 神様を求めて得た人は
その場限りの現象などではなく
永遠の命に至るまでの
全ての必要と満たしを得る
金の卵を産む鶏 という
例え話がありますけど
金の卵を貰い歩く人に
なる必要はないんだよ
あなた自身を金の卵を産む
鶏にしてあげよう
と 神様は仰っている
本当の解決は
聖霊の住まう宮となり
神様と共に歩くこと
そもそもで 人は神様と一緒に
歩くために造られた
神様を持つ人の内には
いのちの泉が溢れ乾くことがなく
求める人はそれを得ることが出来る
その「良い知らせ」を伝えることが
私たちのお仕事です
聖書には 知らせなさいと書いてあるけど
受け入れさせなさいとか
勧誘しなさいとは書いてない
受け入れない人たちには
確かに伝えたからねと言って
そこを離れるようにと書いてある
しかしとにかく
伝えること
それは 大切なお仕事なのですよね
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