砕かれた思い

大切なことなので繰り返し書きますが

神様の方を見る ということは
時に 自分の感情を無視することに
なることがあります

自分がどう感じるかではなく
神様がどうご覧になっているかに
視点を置き換えるからです

特に 凹むようなことがあった時
自分や他人を責める気持ちがある時

神様が この状況が起きることを
どうして許されたのか

勿論 全ては益にするためです

であるとしたら ここから得られる益
神様が与えようとしている益とは
一体何なのか

ということに気持ちを向ける

すると 思いもよらない
神様からの語りかけや

思いもよらない自分の心の傷と癒し

思いもよらないような「宝物」

そういったものが見つかります

詳細は書きませんが
昨日 ふとしたことから

父と母のやり取りを見ていて
私は あることを全く
人に期待しなくなっていた

ということに気付く機会がありました

期待をしていないので
得られても喜びが薄いのです

だけど

ああ これはものすごーく
価値のあることなんだなぁ

と思いました

欲しくて欲しくて 期待をしては
裏切られ それでも諦めることなく
欲しいと思う人がいる

それが

何の期待もしていない私の元には
やってくる ということは

それは 私に限らず 多くの人に
神様が与えたいと思っているのに

敵の攻撃が激しいために
受け取るのが難しいもの

なのかもしれないなぁと思いました

例えばですけど

求めてなかったけど 得ている人を見て
それが欲しい と思うことがあります

そんな時 なんで自分にはないのだろう
と 一瞬とっても惨めな思いになることがある

でも その心が多分大切なのです

自分にはない と思ったときに
神様に切に求めることが出来る

その 砕かれた心を
神様は喜んでくださると
感じています

やっと それの価値に気付いたか
やっと それが欲しいと心から
望んでくれたか と

良いものをいくらでも与えたい神様は
そう 喜んでおられるように感じます

神様は 良い行いに対する報いとして
何かをくださるのではありません

ただ 子どものように 信頼して
神様に求め そこに神様の栄光を現す時
一番喜んでくださるのです

詩篇51篇 16,17節
たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。
神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

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