愛以外の動機を悪とされる神

今日のQT箇所は マタイの福音書の
山上の垂訓という有名なところの後半

この箇所は 誠実に生きる人には
神の前に報いがあることを示すほか

律法(モーセの十戒)は破棄されたのではなく
より高いレベルで求められることが
明確に示されているところです

例えば 律法には殺してはならないと
書かれているが 兄弟に対して
腹を立てるだけでも裁かれる

許さないものは許されない
ということは他の例え話に詳しいですが

(王に借金を免除してもらった人が
自分がお金を貸していた人をつかまえて
取り立てをしようとしたら
免除を取り消されたというお話など)

あなたがたは許されたのだから
神様に求められる基準もそれに伴う

と いうことを示しています

これは 他人に対してだけではなく
自分に対してもなんだなぁと
今日 しみじみ思ったのですが

義務感や恐怖感など 愛以外の動機から
自分の行動を決めることを
神様は 悪いことだと仰る

神様は 様々なしがらみから解放して
自由を与えてくださいますが

そもそもで しがらみに囚われて
建前で行動を決めること自体を
悪いことだとされているんだなぁ と
感じました

マタイの福音書5章37節
だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。

自分の本音を隠して嘘をつき続ければ
ストレスを溜めることになり

それが原因でトラブルが起きることもある

健やかでいなさい と仰るその奧は
健やかさを損なうことから離れなさい
ということでもある

そんなことを 今日は1日かけて
しみじみと感じる日となりました

心の深いところから
解放を頂いていると感じます

解放されると

今まで感じたことがないような
感情が沸き上がる

そうか この感情が
奪われていたもので

神様が取り返して
与えたいものなんだな

と 思いました

神様が与えたいものを
ぜーんぶ 受け取ります

本当に感謝します\(^o^)/

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