「いのちが与えられますように」

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アダムが造られたとき 神様は直接
アダムの鼻に息を吹き込み 命を与えられた

アダムが罪を犯したことにより
その命が失われ 「死」が入り

人は生まれながらにして
罪を犯す性質を持ってしまった

それが 「原罪」です

悪いことから離れて幸せになりたい
そう願うなら 神様は必ず命をくださいます

今日の示しは あまり楽しくないお話で
若干書きにくいのですが まあ仕方がない

最近 お気に入りの祈りの言葉があります

それは 「いのちが与えられますように」

洗礼を受ける前 私たちは
アダムとエバの原罪により
全ての人が 霊において死んでいました

その虚しさを

お酒やらお金やら若さやら
名誉やら人の悟りやらの虚構で
埋めようとしても 満ち足りることはない

表面的には栄華を手にしたとしても
裏ではいつも 何か欠けた感じがする

それを 忙しさや遊興 人によっては
自分より弱いものを卑しめることで
埋めようとする

その 唯一の解決が 愛であり

愛に満たされている人は
例えどんな境遇であっても
希望と喜びに満たされる

愛とは神様のご性質そのもので

神は愛

人は本来 神様と共に生きるように
造られたものですが

知恵の実を食べたとき
罪が入った時に

自らの知恵に頼るようになり
そこから苦しみが始まった

でも

イエスさまのあがないを受け入れて
神様との関係を回復してもらったなら

知恵や欲に頼るのを辞めて
神様の愛に頼るようになったときに

神様は 善に報い
悪を叱りつけて裁いてくださるのを見る

善なる者に 完全な勝利と権威があることを
知り 体験出来ることは 本当に恵みです

…と 言う話は 今だから出来る話で

私もクリスチャンになる前は
悪が力を持ち 不条理の中で
ただ堪え忍ぶしかない時があった

特に 幼い頃や胎児の頃に受けた
身内からの虐めとかに対しては

虐められたとしても 生きるために
我慢するしかなかったわけで

我慢する癖 達観する癖がついていて
それに対して怒りとか
感じたこともないわけです

みんな大変だからね

という言葉に殺されるわけです

その結果

完全に死んでいる自分が
自分の中にいることになる

しかも それはただ大人しく
死んでいるだけではない

死の性質というのは 罪を犯すのです

勿論 本当に罪を犯すかどうかは
別問題なのだけど 罪を犯す性質が
自分の中で死んで横たわっている

それを 理性で押さえて
コントロールするのが大人

というのがこの世の中なわけです

けど

神様は

コントロールを手放して
生きろ と仰るのです

死んでいるな 生きろ
わたしがいのちを吹き込むから

クリスチャンになっても
自分でコントロールをしたがる人が
たくさんいます

それは 私からして見ると

神様の恵みを邪魔するものと映ります
私の目には その様に見えます

で ずーっと どう祈ればいいのかなぁ?
と 思っていたわけです

そしたら 神様が教えてくださったのが
この「いのちか与えられますように」

という祈りだった

神様の働きを邪魔することは
寛大な神様の前には
「死に至らない罪」です

そんな 死に至らない罪をも
全ていのちを得ることが出来ますように

幼い頃の 覚えてもいないような
心の傷をも全て 神様の息吹で
いのちを得ることが出来ますように

また まだいのちを得ていない人に
いのちが与えられますように

私の中に まだ死んだところがあるなら
いのちが与えられますように…

全ては 神様のみこころのままに
聖霊さまのみこころのままに
自由にいのちが与えられますように

アーメン

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