癒しのビジョン補足:本当の自分で対話する

前の記事の文章中にある
偽の人格

この人格でいくらお祈りをしても
神様はそれを聴かれない

また 偽の人格で聖書を理解しようとしても
本質的なところは全くわからない

ということを 神様は
語りたいように感じています

もし祈り求めて聴かれないなら

本当の本心は何か

格好つけてはいないか
建前で祈っていないか

を 吟味する必要があると思います

神様は 心の叫びをきちんと
聴いてくださる神です

でも 聴いてくださるのは

それにより神様との信頼関係を築いて
神様の本来の召し

何のために神様が自分を作られたか
その「神様の仕事」に入るためだと感じます

心からの願いは 確かに聞かれます

でも どんなに願いが聞き届けられても

自分の本来の召しを歩く人生の喜びに
勝るものはないと感じます

今日は 時間がたくさん頂けたので
聖書の 士師記を読んでいたのですが

この箇所は イスラエル人が
まだ主こそが唯一の神だと
よくわかっていなかった時期で

主は「奴隷解放の神」であり
その他に「豊穣の神」だとか
なんだとか 時と場合によって
神様を使い分けている時だったそうです

なんだか 八百万の神を信じる
日本人と通じるものがありますね

しかし 真の神以外の正体は
神に似せて作られて
祝福された人を妬み

その祝福を盗んで 滅びの時には
人をも巻き添えにしようと目論みつつ
自分こそが神と崇められたい存在です

人が崇めれば力を持ち
人が相手にしなければ力を失う

そういう存在でもあります

人もそうですね

支える人が多ければ力を持ち
支える人が少なければ弱くなる

しかし 唯一の例外があります

それは 人の力に依存せず
天地全ての権威をお持ちの真なる神の
保証と励ましを受けることです

目に見えない保証を信じること
それを「信仰」と言うわけですが

神様のご計画にコミットして
アーメン(その通り)と言うとき

全てのことが 神様のみこころの通りに
形になっていくことを見ます

本心は 何なのでしょうか
その本心は 神様のみこころと
重なっているでしょうか

先日のある牧師さんの預言で

「神様のみこころを自らの思いとせよ」

ということを言っていただきました

神様のみこころ

そのことを思うと 本当に
心の内に喜びが沸き上がります

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