心の内を神様に訴える

頭では理解できても
感情ではどうにも受け入れられない

そういうことってありますよね…

ある方向に向かい そのことが
重なっている感じがしているのです

そんな時に どのように神様と
向き合えばいいのか

旧約聖書に ヒントを探します

実は昨日 大変 センシティブというか
ショックを受けるような?出来事が
いくつかありました

が そのひとつに対しては
たまたま居合わせた牧師さんが
原因を察知して 即座に祈ってくれた

その後 りゅうくんと二人で食事をしながら
いくつかのことについてお祈りをしていて

その中で 頭では理解出来るのだけど
感情面で腑に落ちないことについて

神様 どうしてなんですかーーーー

と 吐き出したのです

このことは 昨日の証としても
書きたかったことなのですけど

神様は 叫びを聞いてくださる神様なのです

例えばですが

モーセが80歳の時に 神様から
ヘブル人を救うよう召されたとき

モーセは 私には無理ですと言った

はい わかりましたと
即答はしていないのです

その時 神様は
杖を蛇に変える奇跡を見せたり
モーセの代わりに話上手な
兄のアロンを遣わしたりして

モーセの不足を補ってくださいました
出エジプト記4章1節~17節参照)

しかしダビデの時は違います

神様は あらかじめダビデに油を注ぎ
(恐らくこの時 聖霊を与えたのでしょう)
羊飼いの経験を通して
既に鍛え上げていました

ダビデは 戦いの時は既に
神様と関係がありました
第一サムエル記16章~17章37節参照)

ペリシテ人との戦いについても
神様から 行けと示されたはずです

だから 周囲が止めるのを制して
一騎討ちに行くことが出来ました

ダビデが戦いに勝てたのは
彼の力ではないのです

しかし モーセは 荒野で神様に出逢うまで
神様との関係は 何もありませんでした

神様との対話も初めてで
神様との信頼関係もまだ出来ていない

何も知らない 何も持っていない

強いて言えば 荒野生活経験だけは
ありましたけど 神様の対話と
戦いにおいては全くの未経験だったので

神様と関係を築き
準備を整えてもらう必要がありました

ダビデは既に持っていたから
ただ出ていくだけで良かった

この二人には

神様に用いられた時点での
神様との関係において
大きな違いがあるのです

ここで 話は変わりますが

聖書の中で 12部族は 男性が相続主となる
というルールがあるのですけど

土地を割り当てるある時に、
ひとつの部族に成人男性が
一人もいない時がありました

その時 その部族の女性が
うちには相続する成人男性がいないけど
土地を受け継ぐべきだと
リーダーに訴えました

すると神様は 彼女の言うことは正しいから
きちんと土地を割り当てるように
リーダーに指示を出しました

「成人男性が相続する」

というルールがあったので
リーダーから その部族に
土地を割り当てるという話は出てきません

しかし部族の女性が「訴えた」ので
リーダーは神様に伺いを立てて
神様はリーダーに与えるように指示しました
民数記27章1~4節参照)

この「訴える」ということが重要なのです

聖書では 女性が男性に襲われたとき
もし叫ばなかったら その女は共犯とみなされる

と書かれています
申命記22章参照)

訴えること というのが
聖書では とても重視されています

(これについて 殺されるのが恐ろしくて
叫べなかった女性はどうなるの???とか
思うところはあるのですが

それは神様との関係がない日本人だから
思うことであって 彼らは違うのだと思う

恐らく 彼らにとっては 殺される恐ろしさより
神に見捨てられる恐ろしさの方が上だし

罪を犯さなければ死んでも
神の国に入り永遠の命にあずかる という
希望があり 神に対して絶対的信頼がある

そこが日本人とは違うと思います)

話を戻しますが

モーセは 私には無理だと訴えたので
神様は 準備を整えてくださり

それにより モーセは神が本当に
何でも出来る方で 自分が神様に
選ばれているということを自覚する

もし

モーセが 助けに行きなさいと指示され
自分の勇気だけでエジプトに行ったら
門前払いをされるか 捕らえられ
殺されるかしたかもしれません

私には無理です!助けてください!

と 叫び神様から必要を受けることは
神様との関係を築く上でも
とても大切なことだと思うのです

…で 冒頭に戻りますが

とにかく 私は昨日 あることに対して
理屈ではわかるけど感情面で
どうしても受け入れがたいし納得出来ない

どうしてなんですかー!

と 叫んだわけです

そうしたら

神様は 私が何故そのことを
受け入れることが出来ないのか

その根本に解決をくださいました

出来ないことを 盲目的な信仰により
根性論で乗り越えろ なんてことは
神様は決して仰有っていないのです

神様は 神様のために生きる人には
全ての必要をくださる方です

神様に全面的に頼り
神様の栄光を現すこと

それが クリスチャンに与えられた
使命であることを忘れないようにしたいです

よかったらシェアしてね!

この記事を書いた人