私の大きな願いの一つは
クリスチャンが大きな力の中を歩くこと
責任の一つは力のない教会に立ち向かうこと
神様は本当に良い方で
神様はご自身の考えを変える必要はありません
教会が考えを変える必要があります
原則を学ぶかもしてませんが
王の王であるキリストを知る必要がある
キリストにあって私たちが何者であるかを学ぶなら
勝利の中を歩くことになります
チャレンジを語ります
自分が用いられるのにふさわしくなっていないと
思うから力の中を歩めない人が多いです
もしあなたが用いられるのにふさわしくないと感じるなら
癒しが必要ですねと言います
私は用いられるのに十分だという人がいれば
その人にも癒しが必要だと言います
ただ子羊の血潮の故にふさわしくされているだけです
自分がふさわしくないという思いを打ち砕きたいと思います
それは偽の謙遜です
私たちが何をするかではなく
キリストが何をしてくださったかにかかっている
旧約聖書に用いられた人々を見ても
彼らの人生をみるとふさわしくないと言いたくなるような
人生を歩いています
500年の刑 死刑に定められるような
刑務所に行きました
そこで素晴らしい働きが起きています
私の息子たちがたくさんいます
ギャングのメンバーが質問しました
私は用いられるほどふさわしくありません
あなたはあなたがやってきたことを見て
相応しくないというんですよ
みんな過去はあります
ですが赦されています
どれだけ赦されているかを知るか
彼は盗んだので刑役についています
しかし血によって変わったと示されて
周りの人に福音を知らせイエスさまを伝えています
確かに教会の中で破壊されるべきものがある
私たちのパフォーマンスではなく
神様が何をされるかが大事です
神様に用いられた人がたくさん登場しますが
私たちが相応しいのはただ
イエスキリストの血潮のためです
信仰について
あなたの内側にいる方に信仰を置くことにより
より勝利の道を歩むことができる
もし勝利の中をクリスチャンが歩むなら
世界を変えることができる
宗教の中では私がどんなにひどい人間かだけ教え
父なる神と勝利を生きることは教えてくれなかった
ヨハネ14章
その日私が父にいることを知るでしょう
私たちがキリストにあって
私たちが何者かを知れば
もっと勝利を歩くことができます
私を通して神の力が働くのを見ないのはなぜかと
いう質問をするなら 自分の身分を悟ってない
私自身という考えでは癒しは起きない
イエスキリストを人生に受け入れた
もはや
ガラテヤ2章20節
私の中に生きているのはキリスト
キリストが私の中に生きている
人生を明け渡した瞬間
あなたの中にいる私という人は
十字架につけられました
イエスさまはあなたを救うためではなく
あなたを殺しに来た
あなた自身から解放されるため
あなたを殺す必要があった
キリストはあなたのために死んだだけではなく
あなたになって死んでくれた
まだ死んだはずなのに勝利を歩いていない場合がある
それは宗教の中を歩んだから
宗教の中で日々死につつあると教えます
肉には罪深い性質があるので
毎日死に渡さなければならない
聖書のみ言葉を十分に
おしえられていないから
罪深い人が残っていると考える
しかし聖書には
その性質はイエスと共に十字架につけられた
ですからこれから殺し続ける必要はない
既に死んだのです
あなたが毎日何とか十字架につけようとするなら
信仰を持ちながら罪の中を歩くことになる
既に死んだものだということを受け入れてください
ここに良い知らせがあります
キリストと共に十字架につけられただけではなく
キリストと共に復活されたのです
キリストはあなたとして死にました
キリストに会って新しく作られた人になりました
かつては私の中に住んでいる私でした
しかしその私は十字架につけられた
私がよみがえったとき「私たち」になった
キリストと共に一つにされたのです
キリストとの結合に歩くことを知らないため
力の中を歩めない
あなたは神から離れることはできない
キリストと一つになったからです
教会はこの概念を受け取る必要があるが
教会はこの外をぐるっと歩いている
あなたはもはや罪人ではなく
全く新しい性質を引き継いだ人です
贖われ買い取られ
恵みによって救われた罪人という
謙遜にされると思っていますが
生まれ変わったとき聖徒になりました
ただ恵みによって救われた罪人だと
言い続けることにより
聖徒であることと混ざることがある
それは謙遜ではなく分裂症です
ある時は罪人だと思う
しかしもはや生徒である
罪人というアイデンティティをもって
罪から救われず不思議だと思うかもですが
罪人だと思うから罪を犯すのです
1ヨハネ3章
キリストにあって新しいものにされている
キリストは罪も病気もなく勝利者で
破産者でもありませんでした
キリストがそうであるように
あなたもそうであるべきです
手紙に14回罪人と出てくるが
キリストを信じていないものだけです
過去のアイデンティティと
今のアイデンティティを分けなければいけない
本当のキリストにあるアイデンティティを
知り始める時
キリスト教徒は罪を管理する
プログラムではない
あなた自身は罪に対して死んだものとみなしなさいと
パウロは言った
キリストのように
私もそのような存在になる
私には友達もたくさんいますが
敵もたくさんいます
悪魔は必要ありません
教会だけで十分です
あなたを憎みますという人がいる
あなたは罪を犯すライセンスを人に渡してないかと言われたが
あなたはライセンスがなくても罪にいるんじゃないですかと
返そうとしたが返信しなかった
そうではなく罪から解放しようとしているのです
2コリント5章
イエスにあるなら新しく作られた人
あなたはかつて罪人でした
今は違います聖徒です
古いものは過ぎ去った
過去があなたの未来を決めるのではなく
イエスがあなたの未来を決めます
ヨハネ15章
あなたは枝です
私はブドウの木です
実際に実を付けるのは枝です
イエスさまはあなた方はそのようなものだと
言っているのにどうして受け入れないのか
枝になろうと一所懸命になるが
既に枝なのです
イエスはどうしたら枝になれるのかを教える方ではない
イエスはあなたの鏡
ですが宗教は頑張ればいつか聖徒になれるよと言います
創世記3章7節
キリストにあって私たちが何者かという
アイデンティティなくして癒しは起きません
いちじくの葉でおおいをつくった
他に聖書でイチジクについて書かれているのは
イエスが呪った
イスラエルを呪われたのではありません
いちじくには自己義という意味がある
イエスさまは自己義を呪われたのです
いちじくの葉のおおいについて
言語を見ると本質的なものを隠すとある
エバはビキニを作った
アダムはパンツを作った
自己義というものの葉でです
自己義で自分を隠しても何の力もない
しかし教会はそうするよう教えることがある
自己義に頼ってキリストの前に
大胆に出ようとはしていないだろうか
私は大胆に神の前に出ることができる
それは神が義としてくださったからです
良い人が正しいことをしたからと言って
義人になるわけではない
正しい人が不義なことをして
不義な人になるわけではない
クリスチャンでも罪を行うことはあるが
罪人に戻るのではない
古い自分のアイデンティティにより
罪を犯すことはある
聖徒だけど時に失敗はする
罪人としてのアイデンティティを持つわけではない
じゃあ私は聖徒だから
いくらでも罪を犯していいと思うかもしれない
そうしたらあなたは本当に救われた?と
質問しなければならない
罪の葛藤を覚えることはほとんどない
ここから去って悪いことをすることはない
罪に対して死んだものであり
キリストにあって生きているものだからです
アダムとエバは自己義という服を着ようとした
彼らは神様から隠れた
もし自己義で隠れるなら
神から逃げ続けなければいけなくなる
神様は全てをご存知なのに
どこに行ったと言われました
自分たちの格好が恥ずかしかったから隠れていた
しかし神様は動物の皮で服を作り着せてくれた
動物の皮は動物が着てました
肉になるものは殺さなければいけない
スモーキーという豚を飼っていた
ジョニーという羊を飼っていた
しかし彼らは食卓に乗りました
ニュージーランドは5%が人で95%が羊で
羊の殺し方をよく知っています
首を切ります
皮をはぎます
それが羊の皮です
日本人はよく羊の皮を買っていきます
どうぞ買ってください
神様は羊を取り殺しました
神様はベジタリアンではないと思います
この獣は羊と信じられる理由があります
殺すとたくさんの血が流れます
大変な状況になります
神様が羊を屠られた時
その皮は血でまみれていたはずです
神様はアダムとエバはその皮の衣を着せてくださった
着せてくださったという言語の単語を調べると
完全に全体を覆い隠した
それはイチジクの葉っぱのような隠すのとは違う
それは部分的にしか隠せない 自己義です
主ご自身が子羊の皮を使い
全体を覆った
子羊の血でおおわれたのです
私たちも子羊の血潮と皮を着たのです
であればどうして自己義のビキニを着てるかのように
ふるまうのでしょうか
2コリント5章
あなたは新しく作られたものです
新しいという言葉はこういう意味があります
決して今までに作られたことがない形
あなたは何かクッキーの型のようなものではなく
あなたはユニークに新しく作られ
新しい義とされました
神が造られた原型なのです
神により義となりました
彼らは自己義のビキニとパンツで主の元に来ました
彼らは子羊の血で覆ってくれた
それはイエスキリストの義の象徴です
他の考え方で語ります
ノンクリスチャンとして
ビキニを付けてイエスの前に来ます
体も傷ついています
神様は
息子よこのパンツを脱がせて
子羊の血で覆います と言います
あなたの人生を自転車に例えましょう
自転車はボロボロでよくない
壊れています 塗装は剥げています
何かねじれています
イエスのところに来るとき
パンツを取って良い服を着せてくれた
自転車も直そうと
塗りなおして部品交換をします
良い部品に変えていけます
良いものになったからここで
過ごしなさいというなら
新しく作った原型というのとは違います
このように 古い自転車を直して
乗っている人がいます
あなたは古い創造物でただ直されたものではなく
イエスキリストに新しく作られた者です
まだ古い自転車に乗っている人がいます
しかもまだビキニを着て古い自転車に乗っている人もいる
どうして勝利者として歩けないのかと言います
古い自転車を捨てて
フェラーリに乗っていくのです
全く新しい創造物として生きるのです
そうでなくてはイエスの贖いは完成しない
まだ古い自転車に乗っているなら
あなたがまだ何者か悟っていないのです
神の義となったことを信じる人が日本に必要です
自分の正しさではなく
イエスキリストの義です
私たちのパフォーマンスではなく
キリストが何をなさったかです
私が何をしたかではなく
キリストが何を支払ってくださったかです
なぜ力の中を歩けないのか
ビキニをつけている
古い自転車にのっている
私は遺伝子の勉強をしました
医者にも質問しました
聞くたびに違う答えが来ました
赤ちゃんが受け継ぐ血はどこから来るのか
母親のおなかの中で赤ちゃんと母の血が行きかうことはない
では血はどこから来るのか
母の血と赤ちゃんの血が混じると問題がある
そんなことが起きたら注射をして血を抜く必要がある
赤ちゃんの血を作る遺伝子はどこにあるのか
医者は同じ答えを返さなかった
血は父親から来るのです
父親から血を受け継ぐのだとすると
マリヤは処女でした
ですからヨセフの血を受け継いでいない
ただ天の父の血だけです
ですが生まれ変わるというのは
このことを意味しています
アダムとエバの血筋から取り去られ
イエスキリストの血筋になるということです
あなたはもはやアダムとエバの罪の血筋のものではありません
聖徒の血のものになりました
今まで自己義に頼っていたが
キリストの義に頼るものになった
自己義のパンツをはいたまま
自己義に頼ったまま
神の前に出ることはできない
妻に25周年の時に
一度でも離婚したいと思ったことはあるか尋ねた
離婚したいと思ったことはないが
殺したいと思ったことは何度もあると言われた
話を戻しますが
刑務所に奉仕に行ったとき
白いワイシャツと白いズボンを着ていた
私自身は白いものを着てきてはいけないと言われた
暴動が起きた時誰が逃げたかわからないから
その人は3人を殺し
たくさんの女性をレイプした人だった
それは過去の人生で
イエスさまを知り赦された
神によって赦されたので神の義となりました
彼らは赦されたことを知っている
驚くべき人となっている
神は私に語られた
あなたの自己義と目の前にいる人の自己義が
どれほど違うと思いますか
殺しをしてレイプをした
その人の自己義もあなたの自己義も
私の目には同じように汚れている
裁きの時 無実であると裁くこともある
あなたはそのように言い渡されます
神の息子娘として歩むことになります
被造物はうめくようにして
神の息子娘を待っていると書かれている
これが神の福音の力です
私が分かち合っているのは福音そのものです
多くの教会でこのような幅員が
語られなくなっています
罪責感を持つような教えをする教会もある
牧師が高い地位を保つために
罪責感を植え付けようとする人さえいる
神の民全体が立ち上がる時です
牧師のことではありません
教会全体が立ち上がる時です
最も大きな奇跡は子供たちが起こしている
子どもたちは神の義をよくわかっているから
子どもはそのままを信じます
ミサを開く時間があった
私はミサにあずかることはできなかった
違う部屋で違う聖餐式にあった
子どもと一緒にその部屋に閉じ込められた
私は日曜学校の先生ではないので
そのまま福音を語った
イエスさまを知りたい人はいますか?
全員が知りたいと言った
彼らと一緒に祈った
今夜私のミッションの時間に
あなたがたがミニストリーに来てといった
学びの場であるのに少数の人しか
祈ることができなかった
10年たってないが
牧師に何をすればいいかと言ったら
他の教会に行ったらいいといった
信徒たちが働くことを喜ぶ教会にね
夜の集会にミニストリーチームの人出てきてください
と言ったらあなた方が出てきてくださいと子どもたちに言った
いつか働くという嘘を信じないで
集会に出る人はいますか?25人中20人が手を挙げた
21時~23時の集会でした
23時ごろ来てくださいと言ったら
子どもたちが出てきた
大人は不思議な顔をしていた
子どもはミサにも参加していないし
勉強もしていない
子どもたちを通して癒しが起こりますと言った
耳が聞こえない人を癒します
子どもに言った 何をすればいいかわかります?
わかりませんと答えた
私もわかりませんよ安心してと言った
123と数えるので
耳よ開けと言ってください
神があなたはそのような存在ですよと言ったら
子どもはそのまま信じるのです
子どもは イエスのみ名によって耳よ開きなさいと言った
その集会で100人の耳の聞こえない人が癒された
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