一人一人に違う愛

引き続き 愛と情熱を注げることというのが
具体的にどういうものであるかについて
模索中だったのですが

そもそもで私にとっての「愛と情熱」が
どういうものであるかということを
理解する必要があるように感じました

まず前提として
神様が注いでくださる愛と情熱の他に
本物の愛と情熱と呼べるものはありません

私がそれをずっと感じ続けていて
それを注ぎ続けることが出来るか?

と言ったら正直無理だと思います

神様の愛と情熱を感じる時
潰されそうになるほどだからです

りゅうくんが神様から思いを与えられるとき
心臓が潰れそう と言いますが
本当にそんな感じです

あんな思いをずっと抱き続けてるのは
人には無理だと思います

(伝道の賜物を与えられている人は
いつもそんな思いに駆られて動くそうですが)

また もう一つ思うのが
愛と執着は違うということです

執着を愛と勘違いする人は結構多いと感じますが
過去 それで傷付けられることも
多々あったので そういうのは単純に
自他ともに避けたいです

では愛とはなんだ と考えたとき

神様は人を一人一人ユニークに作られて
その人により現れが違うと考えると
私には 私に現わされている
神様の愛というものがあるだろう

というところに行きつきます

実際 私の愛とりゅうくんの愛は全く違いますし
同じだったらそれはそれで気持ち悪いかもしれません

そんな中で 神様から一つ
過去の自分の思い違いについて
示されることがありました

それは 神様の愛を受け取ることを
邪魔しているものを取り除くために
必要な示しでした

神様から語られたことをそのまま書きます

あなたは子どもの頃 注がれるべき愛を
与えてくれない大人の中で
どうしたらそれを得られるかと考えた結果
与えれば得られると考え
一所懸命人に与えようとしていた

愛は与えれば得られるようなものではない
愛はただ一方的に注がれるものだから
与えることで得られるものではない

愛を与えようとすることを止めなさい

聖書の中、ルカによる福音書の6章で

与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。
押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、
ふところに入れてもらえる。
あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。

というものがありますが
これは別に愛について言っているわけではなく
単純に 与えるものは与えられるということを
言っているだけです

これは愛とは関係ありません

愛を得ようと全財産を渡そうとする者は
軽蔑されるだろうと書かれている通りです

また神様は、

本来無償で注がれるべきはずのものに
代償を求められたことが
私が愛を理解する妨げになっている
ということも示されました

ともあれ、愛を受け取ることについても
愛に応えることについても
全てにおいて 余計なものがあって
スムーズに流れていかないのを
どうにかしなければならないわけです

与える賜物はあるのだろうし
実際あると思うような証もありますが

しかし私が「自分の思いで」与えようとするときに
間違えたものが混ざるという感じでしょうか

祈って与える分には何ら問題はないですし
与える時には必ず祈っている
要するに 神様に完全に頼っていますが

それだけをしていても根本解決にはならず
問題は私の内に残ったままで
私が健康な状態になることが出来ないのです

だから神様は そこにテコ入れをするため
与えることを止めるように示されたのだと思います

が その結果 私が与えたいという思いを
利用していた存在がいたことに気付いたので
とても重要なことだったと思います

敵はそうやって 本来神様から受けるものを
盗み壊していくのだということです

と 前置きが長くなりましたが

では私にある神様の愛というのは
どういうものなのか

と 思い巡らしていたわけではないのですが
ここ数日 色々な物事を通して
それを語られているのだということに気付きました

私が熱心に集中してやっていたことで
周囲の人が動く という出来事がありました

私はただ遊んでいただけですし
同じように遊んでいた人は他にもいたのに
私が動いたことで動いたのです

また りゅうくんが突然
「澄子は根気強い」と言いました

その時はそうだよ と言いましたけど
本当にそうなのです 昔から私は
物凄い根気強く 集中力があり
物事を続けることが出来ると感じますし

預言者を通して あなたは完了させるものだと
示されたこともありましたが
とにかく やり遂げるということに
情熱を注ぐ傾向があります

が 執着はありませんし
嫌なものや有意義ではないものに対しては
逆に物凄い見切りが早いので

あまり自分が根気強いだとか
粘り強いとか言いませんが

適した表現をするなら
淡々と延々とやり続けることが出来る

という感じなのです

ひたすらに淡々とやり続けるので
あまりそれが愛だの情熱だの
思ったことはなかったのですが

どうも それが私に与えられた
神様の愛の現れであるような気がします

やってみたい!と飛びつくようなものや
これ続けるのは多分無理途中で嫌になりそう
と思うものを排除していけば
愛と情熱を注ぐものが見つかりそうな気がします

と いうか

本当は神様から これやりなさいと
自分としては物凄く苦手意識があることを
示されていて

でもそれが多分そんな感じに
なるんだろうなぁ と思っています

蛇足ですが

りゅうくんは情熱的に熱狂的に
愛を注ぐタイプです

すごいなぁ私にはそういう愛はないなぁと
思っていましたが 一緒だと気持ち悪いので
それでいいということだな と思います

りゅうくんは私が淡々とやり続けるのを
すごいと思っていますしね

よかったらシェアしてね!

この記事を書いた人