預言を掴むことの大切さ

昨日でQTの聖書箇所としていた
ヨシュア記が終わり

今日からはルツ記でQTをスタートしました

ここ数日、神様愛していますと言うだけで
涙が出そうな感じがしていたのですが

今日もここからの示しは
本当に愛に満ちたものでした

私には、あなたはナオミであり
ルツを得た者として
人生を喜び楽しめと示され

りゅうくんには、あなたは
ルツのように生きなさいと
示されました

ナオミという名前は楽しみ
ルツは潤しという意味です

神様が私に幾度となく
あなたは喜びの子という
預言をくださり

あなたを決して一人にしないと
示されたこともそうですし

私の人生を振り返ると
ナオミだということは
物凄く納得いくものでした

そんなことがあった後に
妹から 面白い記事があったと
URLが送られてきました

それは(ネガティブな意味で)
言いたいことを言わずにいると
身体が語りはじめる=病になる

逆に言うなら
自分の人生をきちんと生きていたら
病にはならない という記事でした

言葉の大切さは実感していますが
そういえば りゅうくんと結婚する時に
神様が 言いたいことは全部言うようにと
強く示されたことを思い出し

りゅうくんとの結婚により
神様が私を癒やしてくださっていることを
改めて深く実感し 感謝しました

その後 神様から
占いと預言の一番の違いについて
示しがありました

占いの霊は ともすれば
霊的に人が見ていない何かを
見てはいるかもしれないが

ただ見てただ言うだけの霊であり
占いの結果 成就には責任を持たない

それを聞く人も当然のように
当たるも八卦当たらぬも八卦
ぐらいの気持ちでそれを聞くが

人は霊にとても感化されるので

占いを信じる者はその霊の性質通りの
無責任で他力本願な口だけの者となる

しかし神様の預言について
神様はただ示すだけではなく
その預言が成就することに責任を持ち
力や助けを与えてくださる

人が預言を掴んで真摯に向き合うことは
神様を愛するということにも通じており

それは聖書にかかれている
「イエス様に似たものになる」ための
道筋になるし

神様を一番に愛すること

心を尽くし 思いを尽くし
精神を尽くして神様を愛する
ということにも繋がっていく

更にはそれが 自分の人生を
歩むことにも繋がっていくことになる

ということを示されました

神様の預言を(まるで占いを聞いたかのように)
「預言されたのだから成就するのだろう」
ぐらいの軽い気持ちで受け取ることは
占いを受け取るのと変わらないことで

預言に対してコミットしてくださる
神様に対して 自分自身も同じぐらい
真摯に預言を掴み取らなければならないのだ

ということを強く感じました

また 恐ろしいな と思ったのは
口ばかりで行動が伴わない
力のない霊にどんなに尽くしたところで
どんどん自分の性質が
悪くなるばかりだということです

尽くせば尽くすほど
誠意を示せば示すほど

どんなに真摯に向き合っても
助けもしなければ力も何も与えず
ただ口先だけの占いの霊のような
神様が造られた本来の姿から
人を遠ざける存在になってしまう

そこには病が生じますが
その病すらも彼らにとっては
搾取の絶好の機会でしかないのです

それは バアルの霊につかえて
自分の体を傷つけて血を流して叫び求めても
最後には殺されてしまった祭司たちのようです

しかし神様の預言を掴む人は
どんどん神様の性質へと変えられていく

神様を信頼し 神様に寄り頼む人は
裏切られることはありません

ですが 大切なのは預言であり
自己義ではありません

イエスさまに似たものになるためには
イエスさまの真似をすればいいのではなく
与えられた預言に対して真っ直ぐ向き合うこと

自分に対する預言を掴むことが大切であって
イエスさまも そのように生きられたし
人々をそのように導かれたのです

冒頭の話に戻りますが 今回の示しについて

ナオミかぁ
たしかに今までの人生
そんな感じだったけど
そんなに楽で幸せなのでいいのかな

というのが正直な感想だったのですか

私が示されている他の預言についても
土台が「ナオミ」だと思うと
物凄く簡単に受け止めることが出来たので
それでいいのだ と思いました

私に対して色々なことを言う人がいますし
他の預言もあるにはあるのですが

私のアイデンティティはナオミでいこう!

と 思いました

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