神様が人に求められる責任

今日は 私は普通に会社がありましたが
姉妹はお休みを取っていたので
私が出勤する時間に駅に送って欲しいと
言われており 少し早めの朝を迎えました

いつもの若干戦場染みた朝でしたが
朝のQTが 姉妹のためのものだと感じ
物凄い勢いで準備をする合間の
短い食事の時にそれを伝えました

それは 自分の十字架を背負う人の
重荷を神様は軽くしてくださるけれど
悪いものに同意をしている人に対しては
そのままで良いとは言わない 解放を宣言する

というものでした

それは 勿論私自身も強く掴むべき
言葉であると感じたので掴みました

具体的なことを言うと 例えば子どもの頃に
代々続く呪いや親の罪による虐げを受けた結果
傷付けられたり 罪を犯してしまったとしても
神様はそのことを決して責めはしないし
むしろ 背負いやすい軛として助けてくださるけど

自分が恐れたり妥協したりすることにより
敵への同意を続けていることについては
神様は 手助けもしてくれないし
自分の責任で離れることを選択して
神様に従うと決意する必要があり
そこにはある程度の努力が伴う

ということです

努力と言っても この世が人に求めるような
自分の力で何とかしようとするという
神様から離れるための努力ではなく
自分の力を全て諦めて神様にへりくだる努力です

放蕩息子は 家に帰る決意と
家まで歩くという努力が必要でした
自分の犯した罪に恥じ入って
受け入れられるかどうかもわからないのに
土下座をしてでもお願いしようと
歩く道のりは 実際より長く感じたことでしょう

ですが 放蕩息子は家に帰る必要がありました
その道中に 足取りを軽くしてくれるような
希望的要素は与えられませんでした

尚且つ プライドを捨てる必要がありました
仮に受け入れられなかったとしても
何とかお願いしますと自分を低くする必要がありました

放蕩息子は プライドの故に滅びの道を選ばず
へりくだる道を選んだという点で
十二分に神様に愛され喜ばれる存在なのです

自らの意思で離れ去ったからには
自らの意思で戻ってくる必要があります

道を誤ったものが戻ってくるのを
神様は心待ちにしていますし

放蕩息子の兄のように 自分の思い違いを
神様に対して言い表せば 神様はご自分の心を
教えてはくださいますが しかしそれを
自分の心とするかどうかは自分の責任です

放蕩息子は 自分の罪の行いに失望して
自滅することも出来たし
放蕩息子の兄は 父の心を批判して
弟を認めずに怒り続けることも出来ます

しかし 神様の御心に立ち返ると決意すれば
放蕩息子は 息子としての服や指輪や祝宴が与えられ

放蕩息子の兄には 自分が相続している
既に持っているものについて教えて貰えるのです

プライドを捨てることが出来ずに
神様から離れたままいるなら全てが悪くなりますが

しかし自分の十字架を背負って歩くものの
軛を神様は軽くしてくださるのです

それは 自分には選択が出来ないような
産まれた環境もそうですし
神様がこの軛を背負いなさいと与えて下さる
(神様と共に歩く)道もそうです

産まれた環境はある意味わかりやすいですが
自由意思で選択出来る道については
どれが自分の十字架の道であるかを
見極めて そこに対して真っ直ぐ進むことが
本当に重要なんだな と改めて思いました

話を朝のことに戻しますが

出発の準備が整い家を出ようとすると
りゅうくんが 梨は?と言いました

実は2日前の土曜日に 母をいつもの梨園に
連れていった際 抱え切れないほどの
梨(傷あり)を小箱に山盛り頂いていたのです

1回目はりゅうくんの会社の人にお配りし
2回目は教会に持っていったので 今回は
私の会社に持っていくことにしていたのですが

よく考えたら 会社から預かっている
重い資料の束とお弁当だけで結構いっぱいで
その上に両手でやっと抱えられる程の大量の梨を
会社から徒歩5分ほど離れた駐車場から
持っていくのは私には無理だと気付きました

りゅうくんは最初から運ぶために
ついて来るつもりでいたようですが
傷物だから早く渡す必要があるので
お言葉ならぬ思いに甘えて来て貰うことにしました

更に言うと 駅で姉妹と別れてから会社に向かい
駐車場に着いたところで りゅうくんを
家まで送る時間がないことに気付きました

家から会社までは3km程で りゅうくんは
最初から歩くつもりでいたようでしたが

梨のことをすっかり忘れていて
全く段取りが出来ていなかったことが
本当に申し訳ないと思いながら
献身的なフォローに心から感謝をしました

会社では 今日から大阪で大きなイベントがあり
半数近くの社員さんが大阪に行っていたので
1人2個ずつ持ち帰って貰いました
本当にたくさんの恵みに感謝しました

最近 神様の恵みが物凄く手厚いことを
感じていたのですが りゅうくんがその様子を
現してくれたように感じました

りゅうくんは 私にとっては神様に与えられた軛です

りゅうくんの若気の至りや意識の低さや欲のために
振り回されたり 胃が痛い思いをすることもあります

しかし りゅうくんは神様の愛を私に
示して流してくれる器でもありますし
神様が置かれた 神様の恵みの基となる人です

私一人だったら 恵みは小さくてもいいからと
安全な道しか選ばなかったかもしれないと思うような
絶対に避けて通るような道も神様が
りゅうくんの故に そこを通りなさいと
仰ることも結構あり それについて神様は
りゅうくんの訓練の為に必要だと仰います

そういう時私は 神様が示された道なんだから
絶対に神様が何とかしてくださると信じて
リスクと向き合うしかありませんが
それに対する神様の報いは確かにとても大きいのです

最近 神様の恵みが物凄く手厚いけれど
何故ですか?と神様に尋ねると
あなたがこの件をやり遂げたから と
教えてくださることがありました

安全領域にいたら手に入れることが
出来ないような恵みを取りに行くのです

私は自分の思いで その恵みの妨げとならないよう
注意して 全ての「軽い軛」を神様と共に
背負って進む必要があり それは私にある訓練だと思います

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