優先順位の通りに祈る

先日 このブログを見て教会に来てくれた人が
夢の中に出てきました

充分ではない装備で戦いに出ては
ぼろぽろになって帰ってくる ということを
繰り返していて 本当にそんな装備でいいの?
と 何度も尋ねるのですが これで大丈夫!と
ぼろぼろの自転車に乗って行ってしまうという夢でした

目が覚めた時に真っ先に思い浮かんだのは
聖書にある 信仰の武具の箇所です

エペソ人への手紙6章14-18節のことですが
この聖句のこと自体は過去に何度も書いている程
とても大切な箇所です

愛と義で敵に打ち勝つ

みことばに頼る

実は最近 夢に出てきた人とは別人で
教会に通いながらも神社やお寺も信じているという
未信者の方と話す機会がありましたが 話を聞くに
霊的混乱が酷く 本当に大変な目に遭っていました

解決を求めるなら混乱を呼び込むものとは
縁を切るのが一番なのになぁ と思いましたが
信仰は人の自由意思に委ねられているため
未信者の人に対してとやかく言うことは出来ません

ですが 何故その人がそれでも教会に来るかと聞くと
教会に来る時だけ平安を得られるからだと言います

それがわかっているのなら と 本物の神だけに
問題解決の力があることを伝えました

ですがその時点では「祈られること」要するに
人に頼っていることを感じ こちらにとても
大きな霊的な重荷が来そうな気配を感じました

すぐにりゅうくんに 聖霊さま以外により
祈られた祈りや願い 思い 呪いを一切裁ち切る
祈りをして貰うと その気配は消えましたが

その人が神様を信じる手伝いはしたいけど
私という「人」に依存されるのは困るし
どうしたものか と思案していたのです

(それで 私には愛がないなぁとか色々思ったのですが)

ですが その人が神様の奇跡を必要としていて
どうにかして平安に留まり続けたいという
切なる願いに対して 聖霊さまは
みことばを教えることを示してくださいました

そういえば私も洗礼を受けてすぐの頃は
毎週 みことばについての勉強会に参加して
自分の悩みに対する神様の約束を聖書から見つけて
掴むということをやっていたなぁと思い出し

その人の悩みに最も適した聖句が見付かりそうな
聖書箇所をお伝えすることが出来ました

勿論 聖書を全部読めばそのどこかしらに
自分が掴みたい聖句が見付かるかもしれませんが
聖書通読となると みことばを掴むことよりも
聖書を読むということにフォーカスしてしまい
欲しい約束を自分のものとして掴むということは
後回しになってしまう感も否めませんし

ましてや(真理を教えてくださる)聖霊を
まだ受け取っていない未信者の人というのは
霊的な邪魔がそのみことばを掴ませないように
することも(経験上)わかっています

以前はその様な人に対して 本人が信仰で
受け取りたい!と願い求めてくれないと
掴めないものだと思っていたのですが

仮に本人が掴みたいと思っていても
掴めないことがあることも感じていて
(ましてや未信者ともなると邪魔が大きくて
例え神様の奇跡を体験しても 違うものに
目移りして神様から離れてしまうこともあるので)

信仰は人の自由だからあれこれ言えないし
依存されるのは困るしどうすればいいのだろう
と いうのは長年の課題であったのです

(ちなみに牧師の賜物がある人はこれで
本当に潰れてしまうこともあるようです)

ですが 神様は私の祈りや願いに対して
答えようとしてくださっているということを
この件を通して実感することが出来ました

神様が語ってくださるならその通りにすれば
必ずそれは為されるからです

これは恐らく 今までは「人を救うため」に
祈っていたのが「私の悩み」として祈り出したから
答えが頂け始めたのだと感じました

神様との関係構築には優先順位があり
まず神様 そして次は人ではなく自分なのです

その事を思い起こさせて頂いたことにも
本当に感謝でした

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