赦すための恵み

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私の経験上 神様は「赦したいけど赦せない!
どうすればいいの!」という叫びに対して
恵みで答えてくださる神様だと思います

逆を言うと

この人のことは赦したくない
絶対にこんなの赦されるべきではない
裁かれるべきだ!なんてことを思っていると

神様のみ恵みを受け取り損ねるどころか
赦されていた自分の罪まで問われることとなり
自分に対する毒になってしまいます

ある時 ネットでこんな記事が
話題になったことがあります

「誰かのことをあなたが怒っている間
どうせその人はパフェでも食べてるよ」

人のことを赦せずにいらつくことは
馬鹿らしいから忘れなさい という話ですが

聖書の神様の仰る赦しというのは
遥かに高いレベルのことを示されます

もしかしたら過去 記事に書いたかもしれませんが
赦すことについて すごく
大好きなお話(証)があります

自動車を修理したり部品を売ったりする
お店があったのですが そこでタイヤが盗まれました

オーナーは 誰が盗んだか解っていましたが
素知らぬ顔をしていました

そのうちに 自分が盗んだとばれていないと踏んだのか
盗んだ人が自動車修理を依頼してきました

精算の時にオーナーはこう言ったそうです

私はあなたがタイヤを盗んだことを知っています
ですが 私はクリスチャンで
聖書には赦せと書いてあるので
その事を完全に赦しています

赦していることの証明として 今日の修理代金を
私のポケットマネーで全額支払います

そう言って 修理代を目の前で立て替えたそうです
盗んだ人は駐車場で 呆然とした様子で
長い時間佇んでいたそうです

このオーナーが立派だったという話ではありません

赦す時 神様は赦すために必要なものも全て
備えてくださっているのです
そのみ恵みをこのオーナーは掴んでいた
だからこの人は それが出来たのです

自分を傷つけた人とこのような形で
向かい合うチャレンジを神様は
与えられることがある

それは 全ての人が救われるためであると同時に
傷つけられた記憶を 神様の強さで
塗り替えるためでもあります

傷は人を臆病にしますが
神様は人を強くされる方ですから
そのような方法を採られることもあります

もし 赦しはするけど無関係でありたいと思うなら
それは全然 傷が癒えていない状態です

無関心は 愛とは真逆であり
神様のご性質とはほど遠いからです

これはお節介をしろという意味ではありません

悪に向かい自由に歩く人がいたら
愛を持ってとりなしをします

とりなしの祈りをした時に
あなたがやりなさいと言われたら動き

あなたがそれを言うべき立場ではないと
神様に示されたなら共に歩かない

ただそれだけの話です

怒る時 赦せない時 心の中は
悪者への思いでいっぱいです

神様のみ思いを押し出して
悪者への怒りで満たされているなら
それは悪者と共に歩いている状態です

一緒にいてはいけないのです

その人が神様を知り 悔い改めるチャンスが与えられ
神の人に立ち返ることを神様に期待する時

神様の御思いを心の中心に置いて
神様と共に歩いています

ですが 自分がどこから救われ
何から赦されたのかを解っていなければ
赦すことは容易ではないかもしれないです

だからこそ まずは自分自身が
祝福を受け取る必要があるのです

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