昨日は 神様からあるビジョンを与えられ
徹夜で作業をしてしまったのですが
ものすごーく楽しかったのですけど
あまりにも楽しく集中し過ぎて
愛以外のものを優先させてはいないかと
思わず立ち止まってしまうほどでした
神様からの愛の示し
そんな思いのままにQTをしたら
昨日の記事(全ては愛のため)に
なったわけなのですが
きちんと自分が神様のことを
愛する思いで作業をしているのかについては
いまいち自信が持てなかったので(苦笑
今朝は 神様の愛を深く感じる日にしてください!
とお願いをしました
すると 神様はたーっくさんのことを
語り掛けてくださいました
私と一緒に過ごすことの
どこが気に入っているかであるとか
神様が 何故私のことを
教会で奉仕をすることから離れて
この世に出ていくように示されるのかについて
とても深く納得が出来るように
事細かに教えてくださいました
そして
聖書には怒りは良くないと書いてあるのに
私に対しては神様が「怒れ!がんばれ!」と
むしろ怒りを表に出すように
背中を押される理由を教えてくださいました
期待の有無
一昨日のことですが
部屋の大掃除と模様替えをする中で
誰にでも出来るような作業については
りゅうくんにやってもらえるように
お願いをしていたのですが
ある1つの作業が半分だけ終わっていて
半分残ったままに放置されていました
昨日 そのことに気が付いて
あれ?りゅうくん作業まだ残ってるよ?
と言ったら あ!忘れてた!と言うので
きちんとやってくれるのかなーと思ったら
今日になってもまだやっていなかったので
仕方なし 私が代わりに作業をしました
そして今日 そのことをりゅうくんに伝えても
ありがとうもごめんもありませんでした
その時は自分でも気付かなかったのですが
そのことがかなり不愉快だったようで
自分の言いたいことだけを
話し続けるりゅうくんに
だんだんイライラし始めました
何故イライラしているのかも
自分でよくわかっていなかったので
少し距離を置いていたら
怒ってる?と尋ねられました
で
そう尋ねられると 自分が何に対して
怒っているのかが口をついて出るのですが
以前 教会の姉妹から
私が怒っている時に話す内容について
聖霊さまが話させているように感じる と
言われたことがあるのですが
正にそれです
私が自分の意志で言っているのではなく
聖霊さまが私に怒りの言葉を与えられるのです
一通り言い切ってから
今 なんかものすっごーい 高いレベルのことを
りゅうくんに求めることを言っちゃったなぁ
こんなこと 以前の私なら
(後で愚痴るぐらいはするけど)
怒りを感じるまではなかったのに
神様に怒れと後押しされるのはなんでだろう
神様はどうも 怒る相手を選んでいるようで
精度を上げようとしているのはわかるのだけど
でも 自分が精度高いことをするのはともかく
なぜ人にそれを求めなければいけないのだろう
と 逆に自分で疑問を持ってしまうほどなのです
特に 相手を選んでいること
他の人が同じことをやっても
絶対に怒ることはあり得ない
というところについて
少し深く考えました
どうして他の人がやりますと言ったことを
完了させることが出来なかったとしても怒らないのか
それは その人に期待をしていないからです
自分でやります と言っておきながら
それを完了させることが出来なかった時
終わってないよ?と指摘しても
完了出来ないのであれば
この人は自分の言ったことに
責任を持てない人なんだなと思い
代わりにやってしまいます
それについて 特に何の感情もありません
この人にはまだそれが出来るだけの
力がないんだなと思うだけです
ですが りゅうくんには
自分の言ったことに責任を持ちなさい
やると言ったからにはやり遂げなさい
と 怒ってしまう
言ったことに責任が持てないような
いい加減な人になって欲しくない
という思いもすごくありますが
それに加えて
私はりゅうくんがやると言った言葉に
期待をしていたわけで
怒ってしまうのは期待を裏切られたからです
そのことを思ったとき
あ 私はりゅうくんに甘えているんだ と思いました
怒るべきと示される理由
すると神様が
やっと気付いたかーっ
甘えて良いんだよ 期待もしていいんだよ
と 仰るではありませんか
!?と思いましたが
そこに愛があると神様は仰るのです
愛する故の甘えであり
甘えがあるから期待を裏切られた時に怒る
相手を頼りにしていないなら
怒ることはないのです
頼りにしているから怒るのです
うーん と思いました
そのことを示されてからりゅうくんに
りゅうくんのこと 頼りにしてるの
頼りにしてるからやってくれないと怒るの
頼りにしないという選択肢はないから
怒られちゃって可哀そうだけどごめんね
と 言うと
怒ってくれるから成長出来るから
怒ってくれてありがとう と言われました
そういえば
クリスチャンになってすぐに
神様からよく怒られて!?となりましたが
あれは神様が私に
期待をしてくださっていたからなんだなぁと
今であればわかります
そして同時に イエスさまが弟子たちに
不信仰な人たち と怒っておられたのも
期待をしていたからこそだったのだなぁと
そういう接し方も 神様から出たものであり
神様から与えられたもので
私が神様から受けて人に流すものである…
と いうことだったんですねぇ
聖書にダメだと書いてある「怒る」とは
種類が違うってことなんでしょうけど
難しいねっ
まあ 1~2年もすれば
あの時はわからなかったけど と
言えるようになるのかもしれませんけどね^^;
コメント
コメント一覧 (1件)
[…] 期待の現れという記事の中で神様が 私が怒ったことを喜ぶという驚くべき体験をしたことが書かれていました […]