神様は 小さいもの 自分を低くするものを
一番高くあげられる方です
自分を低くするとき
神様からの大いなる愛を感じます
自分を低く出来ないとき
神様からの愛も み恵みも
自分自身の心が壁となりブロックします
ですが安心してください
神様はその心の壁すらも用いられる方です
散り散りになった弟子たち
イエスさまが十字架にかかられる前
弟子たちに こう仰られました
マタイの福音書26章31節b
「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。
『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる』
と書いてあるからです。
ですが弟子たちはこう返します
マタイの福音書26章35節
ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければ
ならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは
決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。
ですが実際 弟子たちは預言通り
イエスさまが捕らえられた際に
散り散りに逃げていきます
ペテロは 刃物を持って抵抗しますが
それをイエスさまに窘められてから
逃げていきます
刃物という 自分を守るものがあったときは
戦おうとしました ですが守るものが無くなると
そこに留まることは出来ませんでした
神の愛に気付いたヨハネ
ですが もしここで弟子たちが
逃げずに留まっていたらどうなるか
弟子の中で唯一 イエスさまが十字架にかかられる時に
足元にいたヨハネはこう言っています
ヨハネの福音書18章9節
それは、「あなたがわたしに下さった者のうち、
ただのひとりをも失いませんでした。」と
イエスが言われたことばが実現するためであった。
イエスが捕らえられた時 弟子は全員逃げました
しかしヨハネだけが このイエスさまの言葉を思い出し
自分自身が逃げたことはみこころだったのだと
気が付いて イエスさまの元へ戻ってくるのです
イエスさまは きちんとみことばで
あらかじめ彼らを守っておられたのです
自分の弱さを認め その弱さすら
用いてくださる神の大いなる愛の前に
ヨハネは自らを低くすることが出来ました
自分を高くしていたため砕かれたペテロ
ですが リーダーという肩書もあり
自分は絶対にイエスさまを裏切らない!と
自分を高いところに置いていたペテロは
人の力(刃物)に頼り人を傷つけた結果
自分が処される可能性という恐れが入り
3度もイエスさまのことを
知らないと言ってしまいます
肉の力に頼り人を傷つけてしまったところから
過ちに過ちを重ねてしまうのです
そして 鶏の鳴き声を聞いたとき イエスさまから
「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」
と 預言されていたことを思い出して泣き崩れます
ペテロもヨハネと同じく
ご計画の中で 自分で自分の行動を
どうにも出来なかったことをこの時悟るわけですが
ペテロの場合は自分は絶対に裏切らない!と
自分を高いところに置いてしまっていたために
心が折れてしまいました
砕かれた心は神への捧げもの
しかし そのペテロの弱さにもイエスさまは
特別にその愛を注いでくださいました
ヨハネの福音書21章5-7節
イエスは彼らに言われた。
「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」
彼らは答えた。「はい。ありません。」イエスは彼らに言われた。
「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」
そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、
網を引き上げることができなかった。そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。
「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、
裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
詩篇51篇がそのままに現されているような情景です
詩篇51篇17節
神へのいけにえは、砕かれたたましい。
砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
普通 水に飛び込むのに服は着ません
彼が自分の心に作っていた
プライドという心の壁は
水を泳ぐのに上着を着るという
礼節の心へと変えられました
また ペテロは自分の判断ではなく
ヨハネ(=イエスの愛されたあの弟子)が
「主です。」と言ったことに反応をしています
自らを低くしていたヨハネは
ペテロに愛を流す器となっていたのです
神様は その御心の通りに
自らを高くしているものは 低くされ
自らを低くしているものは 高くされました
ですが それは人間的な上下関係であるとか
そういうことではありません
ただ 愛という命の水は
高いところから低いところへと流れていく
自らを低くしたもののところだけに
愛は 流れていくのです
コメント
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[…] 昨日の記事(愛は高いところから低いところへ)をはじめ いくつかの記事で同じテーマについて 何度か繰り返し書いているのですが […]