自分の心が責めても

ヨハネの手紙第一3章18-20節
子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。
たとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。

ある人についてお祈りをしていたら
示された聖句です

少し前に ここを読む機会があり
本当にその通りだなぁ と
しみじみした箇所でもあるのですけど

特に 最後の「自分の心が責めても」

ここです

結局 ここを避けようとすると
神様のみこころをどうあっても
歪めることになる

とは言え イエスさまであっても
ゲツセマネで祈ったように

出来ればこの杯を取り除いてください
しかしみこころなら
その通りになさってください

と 祈ることはやって良いわけで

そのように祈ったとき
神様は心を慰めてくださり
みつかいが応援に来てくれる

自分の弱さに 神様の栄光が現れる

自分の力では乗り越えられないことが
神様の栄光を現す機会となるわけです

私は ここに対する意識が
間違えているなぁ と感じました

折角 神様の栄光を現す機会を得たのに
この世の気遣いに負けていたな と

勿論 それは神様のことを知らなかった時に
悩んで 正解が何かわからずに
混乱していたから というのもありますが

(自分が悪く言われてでも
言うべきことを言う方がいい
=自分が悪い という
間違えたセルフイメージを
持ってしまっていた

よくよく考えれば(聖書をよく読めば

神様がよしとされることをやったときに
人がどう思うかについて
私には一切責任がないんですよね

今日は そのことに気付かされたので

もっとシンプルになろうと思いました

わざわざ自分から変なものを
背負うことはないですもんね(^_^;)

アーメンです

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