クリスゴアヒーリングスクール2-1

一年に90回ぐらい旅行をします
行く全ての場所が好きではないですが
この場所は大好きになりました

新しい家族を見つけた気持ちです

観光とか一つもしていませんが
皆さんが大好きになりました

メッセージの前に

私の内側のナビゲーションは
癒しが必要だと妻が言います

外を出歩いたら迷子になると思います
今のところ下のカフェまでしかいっていません

今朝散歩をしたとき主の喜びがあることを感じた

神様はどれだけ私たちを愛しているかだけではなく
大好きだと思ってくださっているということです

私は教会の環境で育ったが
良い子にしている時だけ愛されていると思っていた

しかし愛しているだけではなく
好きだよとおっしゃいます

我慢している神様ではありません
義務的に愛する方ではありません

好きでなければならないという
義務的に好きなわけでもない

でも心からあなたのことが好きだよと

外を歩いている時
神の深い愛と熱い思いを感じることができた

ご自身の思いをまず私たちに向けてくださっていて
否定的な思いはない

ひとりひとりに情熱的な愛を傾けています

今日のセッションでは教えをします
ですが神の国の実際的な現れがあってからします

体験せず聖書を学ぶことは意味がない

ブレイクスルーをしていない2つのことを昨日話しました
間違えた神観です

体験が少なく間違えた神学を作ってしまう

もし神の心を受け取っているなら
癒しのための神学は必要なくなる

多くのミニストリーが間違えた神学の上に立っている
神の体験が少ないためにそれを正当化する神学を作っている

力のなさをそのまま癒されない人に向けてしまう

著書にも書かれているが
人生を建て上げる時の間違えた神学を暴きます

5つの教えを明かします

癒されないのは信仰が足りないのでしょうか
信仰がないのではなく
疑いが存在するためだと思っている

疑いを強めてしまうことがある
体験のなさを正当化するためです

まず第一に
パフォーマンスに対する疑い
大事なのは私たちのパフォーマンスではなく
神様が何をしてくださったかです

要求は私の上ではなくキリストの上にあります

祈る時イエスさまを知らないという人がいますが
イエスさまがあなたを知っている

あなたの神を信じないという人がいる
しかしイエスさまはあなたを信じていると言います

完璧でなければ癒されないのであれば
誰も癒される人はいません

イエスさまの完璧さで癒されるのです

至聖所に年に1回入りますが
礼拝のためではない
罪の生贄のためです

捧げものが完ぺきであるか
それによってイスラエルの祝福がかかっている

もし生贄が完ぺきでなければ
イスラエルは祝福されません

大祭司が完全な傷のない子羊を捧げることを期待すると思います
そうじゃないと誰も祝福されないからです

子羊が完ぺきでなければ民は祝福されません

そこには行いがあります
けれども現在のミニストリーの多くが
昔の大祭司のようなことをする

新しい大祭司がいます
イエスキリストです

既に完全ないけにえを捧げられました
永遠の完全な究極の生贄として捧げられたので
毎年至聖所に入る必要がなくなった

どんな素晴らしいパフォーマンスをするかではないのです

従順が祝福を解き放つと言われます
祝福のためには従順である必要があると

私は完全には同意できない
イエスキリストの完全な従順による

もし従順が必要であるなら
まだ行ないは自分にかかっています

私が言わなかったことは

従順そのものを信じているのではないということです

私は祝福されたので従うものになったのです

祝福を受けたいから従うのではありません

イエスさまが既になさったことで
祝福されたので従うのです

イエスさまの祝福が注がれているので
従順に歩くことに疑いはありません

それは従順だから祝福されたのではなく
イエスさまがなされたことで祝福されたからです

マタイ15章
異邦人の女性がイエスの元に来た
彼女はダビデの息子よ私を憐れんでください
娘がひどく悪霊につかれています
イエスに叫んで願い求めた

好きではなかったみ言葉があります
好きじゃないのでみ言葉があります
23節です

嫌いなので聖書から切っていましたが
黙示録に切り取ると呪われると書いてあるので
切ったものを戻しました

イエスさまはなにもお答えにならなかった

これは私が知っているイエスさまの姿ではなかったからです

願ったのに答えないことをイエスさまは選ばれた
なぜイエスさまはあえて答えないことを選ばれたのか

この答えを求めて数年間求めました

そして見つけました

ダビデの子という表現は
ユダヤ人たちがイエスキリストに向かう時の言葉です
ユダヤ人ではないならダビデの子イエスよと
呼ぶことは出来ないのです

彼女は異邦人でした

異邦人なのにユダヤ人の王としてのタイトルを使いお願いしようとした
しかし異邦人です

つまりこの女性は自分のパフォーマンスにより
イエスさまの答えを引き出そうとした

ユダヤ人ではないのに
ユダヤ人として資格があるかのように頼んだ

もしユダヤ人のようにふるまえば
ユダヤ人と同じように祝福を受け取れるはずだ
ユダヤ人のふりをすれば癒されるはずだ

イエスさまを騙すことはできないことをご存知でしょうか
彼女はイエスさまを騙そうとしたのです

それでイエスさまは答えないことを選ばれた

何か素晴らしいパフォーマンスではなく

ありのままで近づく必要があります

パフォーマンス志向の世界に生きています
しかしイエスさまの素晴らしさに目を向ける必要がある

キリスト教は罪を管理するところではない

神はありのままで近づくことを求められています
ありのままで近づくとき
イエスさまご自身を見る

決して病死ではなく破産もしておらず
全てにおいて勝利を収める方でした

祝福を得るために良いパフォーマンスをしようという
考えを捨てて ありのままの姿でイエスの前にくる必要がある

素晴らしい空港のラウンジがありました
NZでは一番長い飛行機でも一時間半しか飛ばない
なのに素晴らしいビュッフェがあり
そこにいくためだけでもNZに行く価値がある

20万キロ毎年旅行をします
ですから空港から資格をもらいました
特別なラウンジに入りファーストクラスで旅行できる
自分で稼いだ功績です

娘はそんな資格はありません
航空会社も彼女には注意を払いません
お金を使っていないからです

私はお金を使い過ぎている
彼女は私が入れるクラブに入れない

私はそのことを知っていた

受付を見た
パスをスキャンした
クラブに入れた

彼女もパスをスキャンした
エラー音がした

すみません あなたはこのクラブに入れません

でもあれは私のお父さんです

怖い顔をした受付は
どうぞお父さんと入ってくださいと言いました

あなたがクラブに入れるのは
あなたがみくにに入れるのは
あなたの功績によるのでしょうか

そうではなくお父さんの功績によるのです
神ご自身のために成してくださったことにより
みくにに入ったのです

このお話の観点は
ただお父さん近くにいてくださいということです
近くにいればいるほど
全ての権利を楽しめます

みくにに入るのは父の喜びです
だからパフォーマンスに頼らず
神の近くにいてください

もう一つ話すことがあります

神の恵みとして病気を示しているところは
聖書には一か所もありません

神の目的を果たすための良い目的として
病気やケガが示されている箇所は一つもない
私はこれに

確かに病気を通して学ぶことはあるが
そのために病気を神が送ることはない

あなたの人生を一新し
人格を作り替えるために
病気を用いると書いている箇所は一つもない

もし病気が神の栄光で神の与えたものだと思うなら
神が私が病気であることを願うと思うなら

今度病気になったとき医者に行かないで
病気がよくなったら神の御心に反するからです
医者は神に不従順な反逆者ということになる
教会にもいかないで 神の御心なんだから

ここに大きな間違えがあります
神は私たちが健康になり
全き姿になることを願っています

私たちは病気になることではなく
良くなることで栄光を現します

ヨハネ9章

生まれつき目が見えないのは誰の罪のためですかと聞きました
教会のあるグループは病気を通して
神の栄光が現れると言います

この人が病気なのは神の栄光があらわされるからだと言いました

神は私たちが思うよりもっと良い方です
考え方を変えなければいけないのは神ではなく私たちです

詩篇134
主のみ名を大きくせよと書かれている
褒めよと書かれていますが大きくせよ
虫眼鏡で大きくせよという意味です

もともと神は大きいのにどうすればいいのか

私たちの神の見方が小さすぎるので
もっと大きくせよと言っています

悪魔を大きくして神を小さくする人がいる

もう一つ話したいのは神のタイミングです

神のタイミングについて癒しのミニストリーで
教えることがあります

私が言いたいのは癒しは既に成し遂げられたということ
それは十字架です

十字架で全ての罪と病は贖われた
そしてイエスは模範です

イエスの元に来た時全ての病は癒された

過去に既に起きたことを現在に適用するのが信仰です

今はタイミングが悪いからと
イエスが追い返したことはない

一か所だけこういう箇所がある
奇跡の時ではなかった時がある

それは水をぶどう酒に変えた時です
しかし良い息子だったので母に従った
主のタイミングにしてしまったのです

でもクリスチャンとして 信じるものとして
自分が力の中を歩んでいない時に
神様のタイミングではないのよね
神様はこれを通してあなたに教えたいのよね

或いは罪があるでしょということもある

これがどのように愚かであるかわかるでしょう
この方がどれだけ完全であることにかかっておらず
イエスさまが完全であることにかかっています

キリストが支払われた代価に立ち返らなければならない

以前パフォーマンスにかかっているような
教会に行っていました

良いことをしたら
十分断食したら
正しいことを言ったら
神は現れてくださる

神が現れるまでにどれだけ
完全に生きなければいけないでしょうか

21日完全に過ごさなければならないとする
20日完全にした
21日目

主のタイミングは今です
神は今の神様だからです

過去に成し遂げられた十字架を
今日に持ってくるのが私たちの働きです

奇跡が起きないのを人のせいにしない
罪に定める勤めに任じることは仕事ではない

私たちは祈るのですが
何か問題があると その人を責めてしまう

そうでなく命と和解の勤めを任じられています

最後に話したいことは

信仰の周りに疑いを固めてしまっていることがある
信仰の欠如を現す疑いです

あなたは癒されませんでした
あなたには十分な信仰がありませんね
信仰を持ったら戻ってきてください
信仰を持ったら癒されるでしょう

しかしもしイエスが模範なら
あなたは信仰がないといって追い返した記述はない

ある人は素晴らしい信仰を持って癒された
しかし信仰がない人も来てイエスは癒された

ローマ12章3節

信仰のはかりが与えられている
ある程度のはかりはある

からし種ほどの信仰があっても山は動く

大きな信仰を持って働くことについては
次のセッションで話します

もうひとつ話し忘れたことがありました

神の御心ということです

癒されなかった時これは神の御心ではなかった

もしあなたの御心であれば私は癒されます
ライ病の人の声

すぐにイエスは癒されず
この人の混乱を解決するまでは癒されなかった

イエスは言った
私の心だ

多くの教会はイエスの心に疑問を持っている
私はイエスがこの人は癒すのが御心
この人は違うと分けているとは思わない

神は天に座っておられる
天の欄干みたいなところから覗いている
今日は誰を癒そうかな
教会は神がこのようにしていると思っている

日曜学校に行ったとき
神はいつも私たちの祈りに応えてくださると聞きました

ある時はイエス ノー 待ちなさいだと習った
確かにタイミングはあるが癒しについては
この考えは受け入れません

あなたは今時ではない
あなたは行いが伴わない
そんなことを神が言うか

イエスさまは確かに天の欄干から見ているが
いつでもイエスと言っています
それが神の心ですでに十字架でなされた

私たちは十字架に戻らなければいけない
既に十字架で完全に代価は支払われた

本当に日本でのリバイバルを見たいです
あなたの国を愛します
あなたがたは今まであった中で
心温かく もっとももてなされました
私はここでリバイバルを見たいです

ですが福音が語られなければ
リバイバルは始まらない
力のない福音は本当の福音ではない

私たちはこの十字架をしっかり
伝える時が来た
それによりリバイバルが来ます

それによりイエスさまが支払われた代価の
全ての報いを受けることになる

もう一度イエスの生き方 十字架に
焦点を戻してください

イエスの十字架の力を述べ伝えていないなら
福音全体を伝えていないことになる