クリスゴアヒーリングスクール1-1

クリスゴア
ニュージーランド人です
クリスマスは故郷に帰っていました
月曜日にカリフォルニアに帰り
今日 日本に迎えてくださり感謝します

癒しについて聞きに来たと思います
癒しについて話します

イエスさまの癒しが国々に触れられることを願っています
力がない教会には立ち向かう必要がある
一部の人が力を使う時代は終わった

今日のセッションでは
癒しについて語る前の土台作りをしたい

癒しの力に歩むのを失敗する理由は
神学自体が間違えている
自分たちの体験を聖書に合わせるのではなく
聖書のレベルに私たちが合わせる必要がある

もう一つの理由は天の父の啓示を失っている
天の父の御心を知るなら
癒しが御心かどうかを疑う必要がなくなる

イエスさまの血潮の報いが

私たちの体験に基づいて神学を作ってきた
神様の性格のレベルを私たちのレベルに引き下げてきた

イエスさまが救われたのは
ただ私たちが教会に行けるようになるためではない
私たちの中に住まわれ栄光を受ける方
天の父という啓示を受け取る時
イエスさまの栄光が現れる

しかし奇跡がないということは
奇跡がないという現状を見て
神がどのような方かを判断しているということ

それは御心ではない

土台をしっかり据えるなら
癒しの力はそこから流れてくる

主の裁きについて語ります

この話には神経質になることがあるが
この裁きにはあなたは無実ですという判決もある

裁判官はあなたが無実を

ヨハネ12章
今 世を裁く時が来た
もし私が高くあげられるなら
全ての人を私は引き寄せます

聖書全体の中で最も誤解されているところです

私たちのミニストリーの土台には
神様がどれほど素晴らしい方かと
いうことを置かなければならない

主は今日も裁きを行っておられる
ヨハネの福音書はそのことを言っているのではない
イエスキリストというレンズを通して言っていない

この世の支配者が投げ捨てられる

旧約聖書的な預言者は
裁くために使ってしまう

祈りの運動も起こったが
この御言葉を違う解釈をする

私が高くあげられるなら
全ての人を私は引き寄せる

しかしこの聖書の言語を見ると
人々という言葉は含まれていない

今は裁きの時
この世の支配者が投げ捨てられる
私が引き上げられるなら
私は全てを引き寄せる

聖書を読むとき文脈が大事だが

この御言葉をこの箇所だけとって
この世を厳しくさばかれると思うかもしれない

33節では

イエスはどのような死に方を示して
このことを言われた

引き上げるというのはイエスが
空中に現れることではない
十字架にかかることを示している
どのように死ぬかを示されている

そして 今 この世が裁かれるとき
この世の支配者が投げ捨てられる

何を引き寄せているのか
この世の裁きです

十字架でこの世の裁きを
すべて引き受けられたということです

全ての代価を支払ってくださいました
キリストがあなたにとってどのような方かが
流れていくようになります

神学はこの解釈を間違えた
神は怒ってこの国々を裁いている
日本の津波も神が裁かれたと思った
そのような解釈をすることで
神の思いを間違って言うことがある

裁きをすべて引き受けてくださったということです

より偉大な時代に生きている

確かに聖書には裁きの日について語られている
それは単数形で栄光の日々は複数形です

裁きの日についても信じていますが
今日のことを指しているとは思わない

もうすぐその時が来ているとは思わない
今は神の偉大な栄光があらわされる日々で
教会が立ち上がって輝く時です

神の栄光が教会を通して
私たちがキリストの栄光を運ぶものになります

このような考えは新しいかもしれないが
イエスは仰った

病気を癒しらい病人を癒し死人を生き返らせなさい
神の国の福音を伝えなさい

しかし教会は救いの福音だけを伝えた
それは天国に行くということだけ

大変な時代から逃げていくことだけを言っていた

しかしイエスさまは栄光に輝く花嫁の元に
戻ってくると書かれている

救いの福音は天国に行くこと
何人連れて天国に行けるか

しかしみくにの福音は逆に
みくにを地に現すこと

救いの福音ももちろん信じています
しかしこれは神の国の福音の一部です

地上で天国のみを地上で十分現さないから
ただ天国に行く福音を語る

神がどのような方かを知るには

へブル1章3節
父なる方を正確に現す方です
イエスさまのことです

天の父を知りたければ
イエスキリストを知ることです

癒しのミニストリーのモデルは
イエスさまです

私たちの本当の模範は
イエスキリストの中にある

私を見たならお父さんを見たと言われた

イエスキリストという人を見る時
ハリケーンが来るときもっとと祈らなかった
津波や地震を歓迎しなかった

あなたを人格的に育てるために
この病をあげようなんて言わなかった

全ての嵐は止まり
癒しを求めてきた人は皆癒され
イエスの参加した葬式は全て滅茶苦茶になった
ご自身の葬式も

模範であるべきです

へブル1:3

新約の時代に生きています
古い契約については疑問があります
古い契約を誤解して今に適用している人が
多くいると思う

その誤解を解くためにイエスが遣わされた
イエスご自身が完ぺきな神学です

私たちにレッスンを送るために
病気を与えることはしなかった
逆に病気を癒された

イエスが戻ってこられるのは
勝利し栄光に輝く教会です

心の一新がなければ
栄光の現れる教会にはなれない

栄光を地で体験せずに天国にはいきたくない

力のない教会はその在り方に立ち向かうべき
イエスの血潮の全ての代価を
イエスが報いを受けることができる

マタイ6章に主の祈りがあります

これは天から地へという祈りです
私たち信じる者の特権は
私たちの場所は天に座していると書かれている
エペソに私たちは天に座らされたと書かれている
それは郷里ではなく現実でなければならない

神の横に座っているなら
神と共に働くものになります

だから主の祈りは父と書かれている
遠くにいる父ではない

ご自身の力という遺産を私たちに与えてくださった

悪魔から権威を奪ったら
悪魔に力はあるでしょうか
悪魔の権威は全て奪われ
私たちに与えられたのです

多くの人は天国に行ったら
その力を使えるのかなと思っている

天国でその力は不要です
この地で使うために与えられました

私は神を必死に求めているわけではない
神は遠くにいるかのように求めない
すでに私の中にいる神に心を止めています

イエスが地を離れる時
あなたがたがこの世の光です
その光で何かをしなさいと言った

既に与えられた権威に気付いて行使するとき
何が起こるでしょうか

天のみくにに病気はない
地においても病気の存在を大目に見ません

私たちが何者かを知らずに祈ると
遠くにいる神様に何とか来てくださいと祈ってしまう

神様はあなたにしなさいという時がある
それは神の娘息子だとわかる時にできる

キリストの命は
クリスチャンではあるが信じていない人の中に
閉じ込められていることがある

イエスさまは外に出たいのです

日本が救われる時が来ました

ただ礼拝を守っていれば救われるのではない
海外の有名講師を招いたら救われるのではない

教会が ひとりひとりがすでに持っている権威に気付き
用い始める時に救われるのです

リバイバルよ来てくださいというのを卒業して
既にあるリバイバルに気付く必要がある

イエスさまは既に全てをなしてくださった
今は私たちが輝くとき

イザヤ60章
起き上がり輝きなさい

使徒12章
ペテロがつかまり解放を祈っていた
徹夜の祈りがささげられており
ペテロは奇跡的に解放され
その祈りの教会に来た

ドアを開けようとした
ペテロに気付いて驚きドアを閉じてしまい
みんなを呼びに行った

今開放を祈っているから
ここにいるはずはない

今日の祈りもしばしばこうなってはいないか

やがてくる いつか来るリバイバルを祈っている
それは間もなく来る においもする
リバイバルは近いと

リバイバルは将来予定されているイベントではない
リバイバルはあなた自身です

数年前
イエスは既に究極の値を支払われた
神がもう一仕事しなければいけないような祈りはしません
そうしたら十字架の仕事を否定することになる

リバイバルのことをそのように祈るのをやめた
私はリバイバルそのものになります

リバイバルはイベントではなく人だからです

聖霊の火に燃やされて生きるなら
復活したイエスの命が内に宿る
そういう生き方をしながら周りにわかちあい
自分の神学をイエスにする

イエスを通して世を見ることができるようになった
天の父の心 環境から見る必要がある

神は国々を裁いてはいない
父は愛に満ちている
天の父を喜ばせるために立派なパフォーマンスは要らない
既に喜んでくださっている

そのように神学を変えていくとき
イエスが真ん中にいてそのイエスを
人々に流していくとき

十字架が中央にあるべきです
私たちの体験が中心にあるべきではない

体験に神学を合わせるのではない
体験が十字架にあってくるべきです

13年目が見えず白い杖をついた人が来た
結婚して8年
見たことない
祈り目が開かれた

私たちに力がないことをサポートする神学は変わるべき
そうでなければイエスの血潮の代価
全てを受けることにならない