私たちの決断に報いてくださる神

神様は罪がある状態の私たちを愛しておられ
罪から立ち直って神様の方に向き直ることを
期待してくださっています

悪いことに向かっていれば人はいずれ自滅します
神様はそのことを 本当に悲しんでおられ

あなたには立ち直る力があるんだよ?と
もうイエスはあなたの罪を背負ったんだよ?
だからこっちを見て!と励ましてくださっています

人には自由意志が与えられているので
神様が人を刑罰により支配することはありません

罪で死ぬな!私に立ち返ってくれ!と叫び
戻ってくるのをただ待っておられ

ご自身の手の中に戻ってきてくれた子どもには
惜しみなく尊厳を取り戻すような宝物を
施してくださるのです

正に 放蕩息子の例えの通りです

放蕩息子のことは過去にも書いていますが

親が死んでもいないのに相続財産の取り分を要求し
外に出て行って使い果たしたところに飢饉が来て
豚の飼育の仕事をやっと貰いはしたものの
豚の餌でも食べたいと思うほど困窮した次男が

自分の罪を認め 実家で使用人にしてもらおうと戻ってくると
父親はぼろぼろの次男を憐れみ抱きしめキスをして
死んだと思っていた子が生きて帰ってきたと歓迎され
良い服や指輪で飾られて祝宴が始まるというお話です

ルカの福音書15章11~23節)

その後 真面目に働いていた兄が怒る話もありますが
父は あなたはいつもわたしと一緒にいるし相続人なのだ
死んだと思っていた子が見つかれば喜び祝うのは当然だ と言います

次男は 父には喜ばれますが
まだ愛において未熟な兄にはちょっと嫌な顔をされます

ですが この後は次男も立ち直って兄のように真面目に働き
次の「次男」を迎え入れる時には
父と一緒になって祝宴をあげるようになるのです

クリスチャンの兄弟姉妹のことを例えて言っています

神様は 全宇宙からこの地の全てを造られた方で
5つのパンから1万人以上(男性だけで5千)の人を
養う力があるだけの大変豊かな方です

長男であるイエスさまの罪の贖いにより
イエスさまを信じる信仰を持つ人を
気前よく養子として迎え入れてくださる

養子として迎え入れられた子どもたちは
父やイエスさまの代わりに
失われた弟や妹に福音を伝えるための
証人になるのです

救われた証人が次に繋がることについては
御国の文化を地に降ろすという記事の中の
コロンビアの証をご参考ください

父なる神は 霊であり天におられる方です
またイエスさまも天に昇られました

イエスさまを信じる人には聖霊が送られ
聖霊を通して神様やイエスさまとの交流が始まります

これが クリスチャン人生のスタートです

聖霊は 何が罪で何が義かを教えてくださいます

何が罪であるかわからなければ
悔い改めようがないからです

罪を指摘してはくださいますが
悔い改めろ!と怒るような神様ではありません

ただにこにこしながら 本人が自分の意志で
悔い改めることを期待して待たれています

しかし人は 罪を指摘されると
罪責感や恥を掴んでしまうことがあります

神様の前に立つ資格がないと
逃げ出したい衝動に駆られる

神様はにこにこ待っておられるのに
その真逆の方向からは悪魔が
罪をなじり責め立て
お前は神の子に相応しくないと
叫んでいるからです

また 悪魔はイエスさまですら試したのですから
誘惑し 罪に躓かせようと罠を張るぐらいは
当然のようにやってきます

クリスチャンが誘惑に弱かったり
罪や恥により自滅するようなら
危なくて外には出ていけません

これは クリスチャンになっても
イエスさまの勝利を信じ切れていない状態ですが
神様との関係が深まることにより
解消されていくことなので時間がかかります

これが クリスチャンになって体験する
霊的戦いの正体であると感じています

また 罪には その責任を
刈り取る必要が生じることもあり
そこから逃げることで悪魔の言い分が
神様に通ってしまうこともあります

但し これについては
マイナスをプラスに変えてくださる神様が
大いなるご計画を用意しているとしか
思えないこともあります

例えば ヨブ記です

ヨブは 子どもたちが罪を犯すのではないかと
心配をしていましたが
その心配という罪を悪魔に利用されてしまいます

しかしその試練を乗り越えた結果
ヨブは神様から倍の祝福を受けるのです

倍の管理能力を鍛えるために
ヨブの持つ心配の罪を打ち砕きたかったと
神様は仰るかもしれません

話を戻しますが

罪を犯したことがない人は誰もいませんし
クリスチャンになったからと言って
神様が自動的に絶対に罪を犯さないように
コントロールしてくださるわけではありません

第二テモテへの手紙1章7節
神が私たちに与えてくださったものは、
おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。

この「慎みとの霊」の部分に ある英訳聖書は
「self-control」という表現を使っています

2 Timothy 1:7(NCV)
God did not give us a spirit that makes us afraid
but a spirit of power and love and self-control.

神様は 私たちに対して
あなたはもう罪の奴隷ではないので
その自由でもって自制することは出来る と
尊敬を持って接してくださっているのです

自分の中の罪の性質を聖霊さまに指摘された時
周りで敵が一所懸命嘘を叫んでいたとしても
神様が自分をどのように見て下さっているのかを
しっかりと掴み

罪を悔い改め もう二度と罪を犯さないように
自分を聖めてください!と自らの意思でお願いすれば
神様はその願いを必ず聞いてくださいます

そして悔い改めた時に
神様は 放蕩息子に与えられたように
美しい服と指輪と祝宴と
神の子としての素晴らしい人生を
与えてくださるのです

前置きが大変長くなりましたが

私にあった問題は 神様が祝宴するよ!と仰ってるのに
まだ自分の問題をクリアできていません
とても喜んでそれを受け取れません と
いつまでもぐだぐだしていたことでした

しかしそこには 実は
私が向き合いたくない問題が潜んでいたのです

それは 過去に傷付けられたことに対する心の解放です

赦していたし 愛してもいるのだけど
どうしても信用することが出来ずにいたのです

というよりも
赦すし愛するけど
人をコントロールしようとする人を信じると
支配されちゃうから近づくのは無理!と
拒絶をしていた感じでした

ですが実際は 私がその支配に対して
Noを上手く言えないのが問題でした

これは裁きの問題とも関係しています
裁く心が出てもすぐに悔い改めはするのですが
自分がこの問題に上手に向き合えないために
裁く心が出てしまわないように祈ること自体が
どうしても出来なかったのです

平たく言えば 離れろと言う神様に対して
出来るようになりたいの!理解したいの!

と駄々をこねていたので

神様が守ってくれないことはわかっていたから
「自衛手段」を手放すことが出来なかったのです

これは 私が掴むべきではない
親の権威を掴んでいたのが原因です

親ではないから権威は貰えないのです
でも親に頼るのが怖いから
掴むべきではないものを手放せなかったのです

もっと詳細に言うなら「神の主権に従わない親」が
私がきちんと向き合えない対象だったわけですが

この人が神の主権に従えないと思ってしまったら
呪いになることは知っていたので祈りつつも

どう付き合えばいいですか?に対して神様は
「避ける」という選択を提示されました

その「避ける」ということに
罪悪感を持ち続けていたために

赦して愛していたので神様は良い実を準備して
これがあなたの分だよ!と仰っているのに
いつまでもぐだぐだと受け取り拒否をしていたのです

向き合いたいけど上手く向き合えない
かと言って避け続けているのも嫌

というぐだぐだ状態です

ですが 避けることは悪いことではないことを
尊敬の文化スクールで知りました
責任を果たすために境界線を引く参照)

むしろ 自分が果たすべき責任を背負うために
重荷を下ろす必要があったのです

クリスチャンになってすぐに先輩姉妹から
ヨブ記を読みなさいと言われましたが
当時の私は正に ヨブの状態でした

もしかしたら私の大切な人が罪を犯すかもしれない と
とりなしの祈りばかりしていました

その恐れは既に手放して神様に
全て委ねるようになってはいたのですが

今の自分には向き合えないから
ひとまず避ける という感じでした

尊敬の文化スクールで学んだ通り
この「信用出来ない」ということこそが
相手を尊敬していない態度だったのです

相手をきちんと尊厳ある人として扱わず
弱い人として扱ってしまっていたために
相手が自立せずに私に依存し続けたのです

勿論 そのように私を教育したのは彼ら自身ですが
間違えて掴んでしまっていた偽りの役割を手放す参照)
私は彼らを赦し 自らの罪を悔い改めました

そして彼らが同じことを求めて来ても
今後はきちんと境界線を引く自由と
自分の発言に対する責任を背負うことに
向き合えるようになったのです

このことを簡単に言うなら

誰かに頼まれごとをした時に
イエスさまや イエスさまが私の上に
置かれた権威の人にきちんと相談をして

手伝ってあげて良いと言われれば手伝うし
そうでなければ断るという
イエスさま主権の自由な人生を
手に入れた ということです

そして無理なものは無理しない!

自分が負っている責任を果たさずに
その外側について出来るようになりたいと
言ったところで与えてもらえるはずはないのです

私には 権威に従順になりたいという
自然の欲求があります

他の人は必ずしもそうでもないようなので
これは自然の賜物だと思います

ですが 権威には良い権威と悪い権威があり
悪い権威には従ってはいけなかったのです

これも何度か書いていますが

聖書では 暴漢に襲われた女性が
もし助けを叫ばなければ女性も同罪になる

例え女子どものような力ない存在でも
脅迫に屈したら同罪になってしまうのです

幼い頃は 神様を知らず弱い存在でしたが
今はイエスさまにより 罪を悔い改めて
立ち直る力を与えられています

赦して愛することは出来ていました
ですから神様はたくさんの実を
既に用意してくださっていました

ですが 足りなかったのは尊敬でした
自らの選択で 受け取り拒否をしていたのです

私は全ての間違えた権威から手を引き
神様による自由を手に入れたことを宣言します♡

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