間違えて掴んでしまっていた偽りの役割を手放す

最近 自分の中にあったテーマが この
間違えて掴んでしまっていた偽りの役割を手放す

ということだったのですが

そのことを考えていた時に 今日
人が神様を求める姿勢に注意するように

ということをQTから示されました

伝道をするときも 教えるときも
神様を求めているからといって
相手の言葉通りのニーズに答えるのではなく

神様がどういう方であるかを伝える
しかも 神様が伝えたい人に
神様が伝えたいことだけを
伝えなければいけない

ということであるようです

人が神様を求める姿勢 というと 例えば
ツァラアトに侵された10人が癒された時
異邦人1人だけがイエスさまの元に
お礼を言いに戻ってきた

というお話を思い出します(ルカの福音書17章12-19節)

10人は10人ともツァラアトが癒されました
ですがお礼を言いに来たひとりだけが
イエスさまの救いを受けました

イエスさまは 救いを受ける受けないに関わらず
たくさんの人を癒されただろうと思います

ご利益主義的な人は 自分のニーズが満たされたら
神様に背を向けて元の世界に戻っていきます

種まきの例えにある通り
どんなにみことばの種を撒いても
信じなかったり 根付かなかったり
この世の気遣いで損ねてしまう人もいるわけです
ルカの福音書8章10-15節)

ですが 神様との関係を求める人は
神様の元に戻ってくるのです

私たちには力がある
それはイエスさまの罪の贖いによる

私たちには力がある
それは聖霊さまの献身的な寄り添う力による

私たちには力がある
それは父なる神の無限の力による

地を作り 天を作り
何もないところから全てを作られた方の
愛と義と誠実さが私たちの力

人には決して持ち得ない力と
罪人をも赦し 新しい人と出来る
神様の愛だけが私たちの力

但し 私たちが担っているのは
そのほんの一部に過ぎない

ひとりひとりに分があり役目がある
そのことには責任が伴う

自分に与えられた範囲の責任を果たせば
より多くのものを与えられるようになる

しかし 自分に与えられた範囲の
責任を果たしてもいないのに
その範囲以上のものを求めても
それが与えられることはない

まずは自分 まずは家族
そこが素晴らしい愛の場所になるなら

そこに 家族の一員として神様が
選んでくださった人々が
招かれるようになり始める

詩篇133:1
見よ。兄弟たちが一つになって
共に住むことは、なんというしあわせ、
なんという楽しさであろう。

これはfacebookにUPした文章ですが
金、土曜日の尊敬の文化スクールと
日曜日女性の解放のミニストリーで
学んだことをまとめたものです

もしリバイバル(多くの人がイエスさまを
受け入れること)が起きても
教会が健全な愛により建っていなかったら
誰が救われた人を癒し 建て上げ
教えることが出来るでしょうか

自分が出来てもいないことを
人に教えることは出来ません

世界中のリバイバルを体験したリーダーたちが
異口同音に言っていることがあります

それはクリスチャンの悔い改めと
霊の家族や肉の家族の回復が起きた後に
リバイバルが来る ということです

しかし この話を聞いた時に
霊の家族の回復とはどのようにして起こるのか?

ということに一つの疑問が浮かびました

というのは 実は私がある教会員との
愛の関係の回復を祈っていた時に
「距離を置きなさい」と示されたことがあり
その後 関係の回復が見られていないからなのです

ですが facebookに上記の文章を書いた後
神様はひとつのヒントを与えてくださいました

有名な 5つのパンと2匹の魚で男だけでも
5000人(女性子ども合わせたら万単位)いる
群衆を養ったお話の直後に

イエスは、人々が自分を王とするために、
むりやりに連れて行こうとしているのを知って、
ただひとり、また山に退かれた。
(ヨハネの福音書6章15節)

ということが書かれています

神様の力を 自分たちの目的達成のために
コントロールしようとしている人たちから
イエスさまは身を隠されました

実は 距離を置くように示された人というのは
私たちが神様に頂く恵みを見て
自分の目的達成のためのヒントが欲しいと
付きまとっていた人だったのです

自分が持つ「崇高な目標」を言い並べて
私はみ恵みを受けるに相応しいということを
一所懸命アピールする人でした

この人を愛するにはどうすればいいの!?と
神様に聴くと それはリーダーが教えるべきで
私が教えるべき内容ではないと思えるものばかりでした

そして最終的には その人から
離れなさい 距離を置きなさいと示されたのです

霊の家族なのに離れなさいと示されるのは
一体どういうことなのかと思ったのですが

イスラエルの民の態度に対する
イエスさまの行動をそのまま
適応して考えれば良かったのです

カペナウムでイエスさまが宣教を始めた時
イザヤ書の巻物を読んだあと 民に対して
エリヤやエリシャの時代の出来事を引き合いに

「神様が選ばれた者だけが救われる」と
はっきり示されました

すると人々は怒りに燃え
イエスさまを殺そうとしますが
イエスさまは通り抜けて行ってしまいます
(ルカの福音書4章16-30節)

5つのパンと2匹の魚の時と同じように
ご自身を支配しようとする群衆のことを
イエスさまは避けられました

ですが 今私たちがいる時代は当時とは違います
また民族的にも私たちは異邦人であり
イスラエル人とは負っている責任が違います

聖霊さまが与えられ 何が義で何が罪かを
知ることが出来る時代であり
イエスさまの花嫁として 傷もしみもない者へと
造り替えて頂くことが出来るのです

ですが そのためには弟子訓練が必要です
何もせずボーっとしていて
イエスさまのようになれるというわけではありません

上述の通り

神様を自分の自己実現のために
支配するヒントを探していた人に対して
神様に愛し方を教えてくださいと叫ぶと
それはリーダーが教えるべきだと思えるような
内容ばかりが示されました

そして実際 その人たちを解放出来たのは
霊の父親 リーダー格の人たちでした

ですが なぜ神様は その立場ではない私に
そのような知恵を示されたのでしょうか

それがずっと自分の中で謎だったのですが
しかし日曜日に体験した解放によって
理解することが出来ました

それは「あなたの親は弱いから
強いあなたが彼らを助けなさい」と
大人たちに押し付けられていたからだったのです

私は「親の権威」を大人たちから押し付けられ
それを(怒りと共に)掴んでしまっていたのです

私は 自分以外の他人になる必要はありません

私は子どもとして愛され守られる権利があるのに
何故そんなことを言われなければならないんだ と
怒りを持っていたのですが

しかし 権威に対して従順になりたい私の性質が
それを掴んでしまっていたのです

子どもとしての自分の尊厳を損ねた大人たちを赦し
裁いていたことを悔い改めることで
自分の召し以外の全てを手放しました

そして それと同じタイミングで

本来 私が養うべきではないのに
私のところに来てしまっていた人たちが
本来の場所へと帰っていきました

感謝を示して帰って行った人もいれば
無礼を働いて帰って行った人もいましたが
いずれにせよ 本来の場所へと帰って行ったのです

これは共依存の関係の打ち破りだったと思います

尊敬の文化スクールに対して
私は今までにないぐらいに
大きな期待をしていましたが

正に 私が最も求めていたものを
得ることが出来たのです

もっと言うなら

スクールの初日には
次に私たちが行く先が明確に示されました

道が開けたのです

すぐに私たちはしるしを求めました

すると 私たちの行動により
しるしは現されると示されたので
私たちはすぐに行動をしました

そして今 素晴らしい神様のみ恵みが
実となって降り注ぐのを見ています

ですがこのことは 始まりに過ぎません

共依存の関係の打ち破りにより
自分が背負うべき十字架の元に
やっとたどり着くことが出来たというだけなのです

過去 力がなかった故に出来なかったことを
イエスさまと一緒に完成させる時が来たのです

このことは 本当に恵み以外の何物でもありません

まだ 自分の中で解決が見えていないこともあるのですが
時間をかけてなのか ある日突然なのかはわかりませんが
取り戻す時が来るはずだと信じています

本当に 神様の御業は偉大であり
このような御業を起こせる神は他にありません

心から感謝します♡

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