神様のご性質と御国の文化

今日は カリフォルニア州レディング市 ベテル教会で
ファミリーライフ専任牧師なども務めておられた
ダニー・シルク牧師の尊敬の文化スクール初日でした

すごくざっくりとポイントを言うなら
支配(コントロール)する文化には恐怖が伴い
互いに尊敬しあう文化(愛)には恐れがない

というお話でした

人を本当に尊敬して愛しているかどうかは
その人が悪い状況の時にわかります

相手に良い実績 良い社会的地位などがある時に
尊敬と愛があったとしても
相手が失脚したり失敗した時に離れていくなら
尊敬や愛は仮初のものだったと言えます

また 多くの人は自分が共感できる人を尊敬します
相手に自分の良い面を鏡のように見て敬愛するのです

もし 国や地域のリーダーを選ぶときに
自分が投票していない人が当選したら
その人を敬愛するでしょうか

多くの人は 自分は投票していないし
自分の考えと違う人だから敬愛しないと思うでしょう

ですが聖書にはこう書いてあります

ローマ人への手紙13章1節
人はみな、上に立つ権威に従うべきです。
神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、
神によって立てられたものです。

尊敬に値するかしないかに関わらず
全ての人を尊敬するのが御国の文化

という風にお話されていたのですが

聞いていて思ったのは「尊敬」と言うよりも
互いの尊厳を尊重しあう文化と言った方が
わかりやすいかもしれないと思いました

と言うことを踏まえて

今日聞いたお話の中で 特に
重要だと思ったポイントを2つ書きます

1つ目はどうしてエデンの園に1つだけ
食べてはいけない木の実が植えられていたのかです

もし全てが良いものだったら選択の余地はなく
自由意志による選択が出来ないから

神様は人に愛されたいのであり
支配したいのではありません

だから自由意志による選択権を与えるために
悪いものも置く必要があったのです

神様は人に自由意志を与えられました
自分で考えて自分で選んで欲しかったのです

2つ目は神様には愛しかなく 恐れがない
ということです

恐れと愛は共存せず
恐れにはコントロールという性質が伴います

恐れがない神様は人をコントロールされないのです
(悲しみはしますが人を恐れにより支配はされません)

ですが 奴隷から解放されたイスラエル人は
神様の前で聖くなければ私たちは死んでしまうかもしれない
と言って 神様のことを恐れました

しかし実際の神様はそのような神ではないのです
殺人を犯したモーセを用いていますし
ダビデに至っては 姦淫の罪に殺人まで犯しても
預言者を遣わして悔い改めを促しました

神様は霊ですから 人は勝手なイメージで神様を見ます

だからイエスさまは肉体を持って
神様のご性質を肉眼でもわかるように
この地にいらっしゃったのです

尚且つ 本当に謙遜に人に遣えるものとしての
神様のご性質を現してくださいました

イエスさまがいらした当時のイスラエル文化は
男尊女卑が著しく 女性は全く尊敬されていませんでした

その上 姦淫を犯した現場で宗教的リーダーに
捕らえられた女性は 全く尊敬されていない状態です

宗教的リーダーたちは その女性を
卑しいものとしてしか見ていませんでした

しかしイエスさまは 彼らに対して
「一度も罪を犯したことがない人から石を投げなさい」
と仰った時 彼らは一人ひとりとその場を立ち去ります

イエスさまは最後に彼女を
私もあなたを罪に定めない としながら
今からは決して罪を犯してはなりません
と 戒められました

何故 イエスさまは彼女を赦せたのでしょうか
それは イエスさまが彼女の罪を背負われたからです

「私が身代わりになる
 だからあなたはもう罪を犯さずに生きるのですよ」

自分が罪を犯してしまい
有罪判決が出ようとしている時に
そのように言われて釈放されることを
考えてみてください

それが 私たちを創られた神様のご性質であり
権威ある支配を期待していた人々は
それ故に不満がったわけですが

神様は その人たちに対して
あなたは自分が何をしているのか
わかっているのですか?

と 仰います

何故なら 恐怖による支配というのは
滅びが定められた悪魔の性質だからです

罪を赦すということは
罪を許す(罪を犯すことを許可すること)ではありません

ところがこれを見て 宗教的な人たちは
イエスさまが姦淫を行うものに対して
免罪符を渡してしまったと思うのです

ですが実際は違います

愛により赦された彼女はもう二度と
姦淫の罪に走ることはしないのです

神様は 刑罰という恐怖により支配する方なのではなく
人が自由意志でもって罪を犯さないことを
選び取るように願っておられる方だということなのです

恐怖と愛は決して共存しません

愛があるところには恐怖はなく
恐怖があるところには愛がありません

第一ヨハネの手紙4章18節
愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。
なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。
恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。

拳銃を突き付けて命令すれば
相手を支配し服従させることは出来ますが

拳銃を突き付けて私を愛しなさいと言っても
本物の愛を得ることは出来ません

神様が欲しいのは人の愛なので
恐怖で支配することは為されないのです

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