「人ではなく神を見る」の真意

今日のQTでは かなり目から鱗の啓示を頂きました

神様と自分との個人的な関係と
兄弟姉妹との横のつながりという
2軸についてはわかっていたのですが

人の権威とその流れという
人間関係の縦の流れについて
それも神様が造られたということの意味が
やっと理解出来ました

聖書に 昔の人は信仰の故に称賛された
ということが書かれています

今の世は クリスゴア牧師の表現を借りるなら
パフォーマンス志向 この場合は
良い行いをしたら良い結果(神様から恵み)を貰える
という考え方のことです

これについては以前も少し書きましたが
神様に心を向ける参照)
土着の宗教を含めたあらゆる宗教で
このような考え方が存在しています

ですが 神様は人が自分自身を誇らないように
ただ恵みの故に栄光を現す方であり

良いことをしたからその人に
神様の栄光が現れるのではなく

神様の栄光を現す器として
相応しいものに神様は栄光を現されます

イエスさまの母のマリヤは
良いことをしたから
神様の母として選ばれたでしょうか?

ダビデは良いことをしたから
王として選ばれたでしょうか

ダビデの子ソロモンはどうでしょう

アブラハムはどうでしょう
イサクはどうでしょう
ヤコブはどうでしょう

選ばれた後の素晴らしさに目が行きがちですが
そもそもの選ばれた基準は何だったのか

モーセに至っては 人を殺して
40年も逃げていた80歳のおじいちゃんで
しかも話すのが苦手でした

なのに 大変高い軍事力を持った大国の
奴隷となっていた100万人近い人々を
解放するために王との交渉役として

更に連れ出した100万もの人を
砂漠で養うというミッションの
リーダーとしてモーセは選ばれました

人間の目で見たら どう考えても
ミッションに適した人ではありません

でも 選ばれました

その理由は モーセの心にあります

自分自身はエジプトの王家の養子となりながらも
自分がヘブル人であることを忘れず
同胞のために犯罪を犯すほどに
ヘブル人を救いたいという思いがあったからです

モーセの(心労を含めた)苦労を考えたら
モーセの賜物は欲しくないと
言う人がいるのもわかります

ですが 神様が彼を通して表された
栄光はどんなものだったでしょうか

当時一番の大きな軍国から
奴隷を解放しました

100万人近い人を砂漠で
飢えさせることなく養いました

人々を管理するリーダーを任命し
神の御霊がその人たちに流れました

ですが最後の最後

神様が「あなたは、彼らのために岩から水を出し
会衆とその家畜に飲ませよ。」と仰ったのに

「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちが
あなたがたのために水を出さなければならないのか。」

と会衆に向かって言ったために
モーセは約束の地に入れませんでした

岩から水は出ました
ですがモーセが会衆に言った言葉は
神様の御心ではありませんでした

神様の愛と憐れみの心を
人々に伝えませんでした

逆らっても逆らっても 尚
あなたたちのために
岩から水を出してあげますよ

と 神様は慈愛を示されたのに
モーセがその思いを人々に
示さなかったからです

モーセはあくまでも神様の愛と奇跡を
人々に流すための器であり
最後まで 素晴らしかったのは神であり
モーセは ただ神様に従う(べき)ものでした

この時 モーセは
神様と心ひとつになることが
出来ませんでした

神様の心ではなく 人を見てしまいました

ですから 神様を世に示さなかった時
神様からの約束を受け取れませんでした

とは言え

約束の地には入れませんでしたが
モーセは 神の国に入る約束を
失ったわけではありません

神様はモーセを友と呼びました
その関係が失われることはありません

イエスさまが公生涯を過ごされた頃の
パリサイ人たちのことも考えてみましょう

生贄の動物を持ってきた人に対して
あなたの生贄には傷があると言いがかりをつけ
傷があるものを捧げてはいけないと
律法に固く禁じられているので
傷のないものを買いなさい という
商売をしていたそうです

それに対してイエスさまは

祈りの家を強盗の巣にしていると糾弾され
自分たちが神の国に入らないばかりか
入ろうとする他の人までも遮っていると言われました

神様は 愛の方です

良いことをしたから
神の国に入れるのではありません
律法を守るから神の国に入れるのではないのです

わざわざ人と同じ肉体を持ち
その命を捧げられてまでも
人々に神の国に来て欲しい
赦すからこっちにおいでと仰る神様です

律法を破りイエスさまに助けを求めた
長血の女は イエスさまにその信仰を褒められました

人々はいつも神様のなさることに
驚き呆れました

聖書の神は愛の神であり
この世の常識は勿論
律法主義 宗教の枠にも
決して収まらない神様なのです

話を冒頭に戻します
神様が造られた権威のお話です

結論から言えば

リーダーとなる人が どんな人間かではなく
どのようなみ恵みを受けているかにより
その下の人たちがそのみ恵みで養われる

ということです

リーダーとなる人が
素晴らしいリーダーシップを持つから
下の人が恵まれるのではなく

リーダーとなる人が
良い行いを積むから
下の人が養われるのではない

ということです

ただ 神の御心により全ては為され

神様のみ恵みを引き出し
それを人々に分け与えることに
一所懸命な人がいるとすれば

その下にいる人たちは
神様のみ恵みを存分に味わい
また分け与える人となるということです

人を見ず神を見るというのは
その人がどのように神様に愛されているかを見る

ということだったんだなぁと思いました

昨日の礼拝メッセージでは
神様の前に憩うものとなった時に
み恵みを受け取るだろう という
示しを受けたというお話がありました

その時に引用していた聖句はこれですが

詩篇23篇5節
私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
私の頭に油をそそいでくださいます。
私の杯は、あふれています。

私にとって この聖句は
事あるごとに示される大切な聖句です

この時ダビデが言っている敵というのは
霊的な存在ではありません 人のことです

どんなに人が悪く言おうと 真理を捻じ曲げようと
神が用意された食卓で憩う時
そこには神様も一緒にいてくださいます

神の栄光が現れるのはそういう場所です

とは言え

正直言うと 心の中では

なんでこんなに何もしていなくて
神様 一緒にいてくれてありがとうー
み恵みをありがとうーと言ってるだけなのに
こんなに豊かなんだろうー

豊かで幸せなのは嬉しいけど
なんでなんだろう?これでいいのかな?

と 思っていました(苦笑

この余計な考えは 自分にはない
パフォーマンス志向の弊害です

自分はそれを嫌っていたとしても
結局縛られていたんだな

このままでいいんだ
余計なことを思わなくていいんだな

と 思ったら本当に肩の荷が下りました^^;

そして
本当に見るべきものに 目が開かれました

そのみ恵みに本当に感謝します!

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