平安を運ぶもの

イエスさまは 神様の平安をお持ちでした

平安と言っても いつも朗らかであるとか
感情の起伏がないとかいうことではありません

もっと実際的な意味での平安を
いつでも持ち歩いていらっしゃいました

怒ることや悲しむことなど
感情を動かされることはありましたが

それは神様に対する深い愛の故であり

感情に突き動かされて罪を犯すことは
決してありませんでした

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聖書における平安とは

聖書に書かれている「平安」は
ヘブル語の「シャローム」という言葉が使われています

「シャローム」には心の平安という意味だけではなく
良い幸いなくらし という実際的な意味があり

聖書的に見てみると 無事 安否 平安 健康 繁栄
安心 親和 和解といった意味が含まれているそうです

イエスさまは公生涯において
病を癒し 悪霊を追い出されましたが

正に この実際的な意味のシャロームを
人々にもたらしていたと言えるでしょう

そして弟子たちに対してもイエスさまは
同じことをやるように託していかれました

しかし弟子というのは 聖書に書かれている
当時の弟子たちのことではありません

マタイの福音書28章19節に
あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい

と書いてある通り

クリスチャン全員に 神様の平安を
運ぶものとなる召しがあるのです

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神様への情熱

神様への愛 神様への信仰においては
イエスさまは大変情熱的でした

そのため 不信仰な人たちに
憤ることは多々ありました

船が嵐で転覆しそうになった時には
ともの方(船尾)で寝ておられ

弟子たちがイエスさまに助けを求めた時
風を叱りつけて凪にした後に
弟子たちにも不信仰であると叱られました

イエスさまは 父がしたことをしているのであり
自分がやりたいことは何一つやっていないと
後々告白されていますので

イエスさまが「向こう岸へ渡ろう」と仰ったのは
神様が向こう岸へ渡ることを許可されたか
指示されたからであるのです

神様がそうなると仰られたことは必ず成就する
向こう岸へ渡ると仰ったらきちんと渡れるのに

それを信じず 平安の外に出てしまった
弟子たちのことを叱っているのです

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実は私も クリスチャンになってすぐの頃
不安に苛まれると神様からも怒られてしまい
どうすれば良いのかわからずに
パニックになることがありました(苦笑

「平安に留まりなさい」

言うのは簡単ですが 平安というものが
何であるかを理解するまでには
結構な時間を要しました

聖書を学び 教会のカリキュラムに参加し
知識はたくさん得てそれも役には立ちました

ですが一番の助けになったのは
同じような境遇を歩いてきた
姉妹からのアドバイスでした

あなたはもう 平安を知っている
だから大丈夫

その一言で 目が開かれました

一度でもそれを経験したのであれば
平安がどういうものであるのかは
わかっているのだから

そこから出ないことに集中すればいい
ということに気付かされたのです

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神様と自分だけの祈り

平安から出ないことに集中するとは
具体的には「祈り」の力に頼るということです

イエスさまは毎朝寂しい場所で祈り
絶対的な信仰の中にいらしたので
イエスさまはいつでも平安でした

ですが イエスさまが感情を激しく揺り動かされ
熱心に祈るシーンが一か所だけあります

それは十字架の直前 ゲツセマネでの祈りです

この時イエスさまは 悲しみのあまり
死ぬほどです(マタイ26:38)と仰り
汗が血のしたたるようになるほど(ルカ22:44)祈られました

弟子たちには起きていなさいと言いましたが
祈っていることが出来ず眠ってしまい

イエスさまは孤独の中で祈られました

霊の目で見れば たくさんの御使いと
神様により支えられていましたが

しかし 肉的には孤独だった

3度目に祈られた時には
その苦しみと孤独を乗り越えられ
祭司たちに捕らえられる時には
矢張り平安でいらっしゃいました

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神様の平安が十字架を背負う力となり
十字架の先に 希望がある

それを手に入れた復活のイエスさまが
恐れ惑う婦人たちや弟子たちに
最初に言った言葉もシャロームでした

今 そのイエスさまが私たちの中に
聖霊を通して住まわれているのです

今日の 神様からの示しは
この平安を受け取ったものとして生きなさい

でした

コリント人への手紙第二4章8-12節
私たちは、四方八方から苦しめられますが、
窮することはありません。途方にくれていますが、
行きづまることはありません。
迫害されていますが、見捨てられることはありません。
倒されますが、滅びません。

いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、
イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。

私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、
それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において
明らかに示されるためなのです。

こうして、死は私たちのうちに働き、
いのちはあなたがたのうちに働くのです。

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