最近 急に寒くなったこともあり
いまいち体調がすっきりしない感じで
どうにかしてくださいー!と
神様に祈っていた時に
子どもの頃に すごく対応に
困ることをする人に対して
どう付き合っていけばいいしたものか と
煮え切らない感じのままに関係が
自然消滅してしまった人に対して
赦す宣言をしなさいと示されました
困りはすれども 別に
怒っていたわけではなかったどころか
当時は上手く立ち回れない自分の
未熟さを責めるばかりだったのですけど
赦すという概念はなかったので
示された通りに赦す宣言をしてみました
すると
何かつっかえていたものが
取れていく感じがした
そして 神様の大いなる愛が
流れてきたのを感じたのと同時に
今までの人生でかかわった全ての人
教会の兄弟姉妹や肉親 仕事で絡んだ人は勿論
コールセンタの1本の電話であっても
ちょっと挨拶をした程度の人であっても
思い出せる限りの人に対して
「赦す」という宣言をしてみよう
という思いが与えられました
赦す宣言がもたらしたもの
私は子どもの頃から人間関係が広かったし
サポートセンターでの勤務経験もありますし
ネット関係のイベントや案件ごとの契約で
お仕事をすることが多かったので
物凄い人数が思い起こされたのですが
とにかく思い出せる限り全ての人に対し
赦します という宣言をしました
すると 一人ひとりに対して
その人の良さも欠点も全てひっくるめて
愛しい という感情が溢れてきて
見るもの全て 関わるもの全てが
愛に溢れているように感じました
そしてそれは
私が幼い頃にずっと持っていた感覚で
ある時を境に 全く感じることが
出来なくなっていた感覚でした
また そのことを思っている時に
私に対して攻撃的であったり
嫌なことをしてきた人の背後に
暗い汚れた霊の存在を感じました
愛にあぶり出されて隠れきれずに
表に出てきてしまったような感じで
それらに対しては イエスさまの血潮で
縛り上げる宣言をしたら
体調や痛みまでもがすっきりしました
怒りを感じていたわけでもない人を
赦すという宣言をしたことにより
自分の人生に何が影を落としていたのかが
はっきりわかる結果になりました
赦す宣言はとりなしの祈りだった
宣言をし続けるうちに 愛に翻弄されるような
物凄いハイテンションになってしまい
今から先 自分にどんな悪事を働く人がいても
赦して愛することが出来る気がする!
という感覚がやってくると同時に
その人の弱さが神様により
強められるようにとりなしたい
という思いが強く与えられました
今までは 罪や咎に縛られて
思い通りにならない人生を送り
不平不満ばかり言う人に対して
同情するような思いを抱いて
とりなしの祈りをしていたのですが
もっと明確に
神様により救われますように!
という強い思いが与えられました
それでわかったのですが
この「赦します」という宣言は
「神様を知らないことを赦します」
「罪や咎に対して無知であることを赦します」
という意味だったのです
「この世」を赦す宣言
言われてみれば 確かに私は
個人個人に対して怒りや憎しみを
持ち続けるということはありません
怒ることがないという意味ではなく
怒りや憎しみを抱くことは疲れますし
そんなことで自分の時間が奪われるのは
大変な損失だと思うので 即座に
神様に手放させてください!委ねます!
と手放してしまうのです
ですが 怒りを抱くポイントというのは
確かに1つのことに集約されていたのです
神様の御心に反することを それと知らずに
やっている人たちに対する憤りと
神様に対する無関心への憤りでした
確かに
神様を知らないのだから仕方がない
聖書を知らないのだから仕方がない
といって思いを飲み込むことはありました
無知であることを責めてはいけないし
知る機会が与えられるように
とりなしの祈りをすることはありました
しかし それだけでは足りなかった
赦さなければいけなかったのです
神様の御心
私が言っていた「赦します」には
あなたが神様の御心を知らないこと
(或いは過去に知らなかったこと)を赦します
あなたの罪は全て赦されていることを宣言します
といったニュアンスが多分に含まれていました
要するに 私にするように示された「赦す宣言」とは
私が誰かを赦せていないから
それを赦す宣言をしなさいという意味ではなく
神様が全てを赦されたことを
一人ひとりに対して宣言しなさい
という意味だったのです
それを感じた時 神様が全世界の人に向かい
あなたたちの罪は全て赦されたんだよ
そのことを受け取るため私の元に来なさい!
と 大手を広げて人々を招いている姿を感じました
ああ 神様はこのように人々を
招いていらっしゃるんだ と思いました
道行く人を赦す
今日 いつも行くジューススタンドで
作業をしていたのですが
店員さん(新人さん風)がお客さんに対して
ミスをしてしまったらしく
ちょっとしたクレームになっていました
今までも こういうシーンに遭遇すれば
とりなしの祈りをしていましたが
これ以上自分が不愉快な思いをしたくない
という気持ちがありました
ですが今日は そんな喧噪を前にしても
全くの平安の中でとても上機嫌な自分がいて
店員さんにもお客さんにも
私にある神様の平安があるように という
今までとは全く違った感覚の祈りになりました
また 座った席の向かいで たまたま
会話をしていた老婦人お二人に対して
赦します という宣言をした瞬間に
神様の深い深い愛を感じ
涙が出そうになりました
すぐに福音を伝えようか とも思いましたが
神様がそのようには示されなかった
まだ時ではないという感じがしたので
この地域の人たちに いつか必ず
福音を伝える機会が与えられるようにと祈りました
「赦す」
神様はもうこの人を赦されている
神様はこの人を愛している
そういう思いが与えられたことは
本当に 素晴らしいことだと感じました
もし 全く無関係な人の罪や
多くの人の不信仰に対して
怒りを抱いてしまうことがある人
また 特に怒りを抱いたことはなくても
神様の赦しを伝えたい全ての人に対して
ぜひこの「赦す」宣言をしてみてください
コメント
コメント一覧 (2件)
[…] 許すという宣言の意味という記事で 全ての人を赦すお祈りを促され […]
[…] これは 以前 道行く人たちに 赦しを宣言した時の解放感とよく似ています (「赦す」という宣言の意味参照) […]